4/13
母、襲来。
昼、チャイムの音で目が醒める。
宅急便は頼んでいない。
こんな平日の昼間にやって来るのは新聞か宗教の勧誘かだ。
昨日も遅かった。無視して寝ることにした。
チャイムが鳴り止まない。
どう考えてもおかしいレベルで鳴り止まない。
大家か隣人から何かの苦情だろうか?
(以前別の物件で大家が「大家!」と叫びながらドアを叩き続けると言う事案があった)
と思い、iPadを見てみると、母からの着信。
そう、今日は母が長野から来る約束があった。
定期的に東京に来ているらしく、今回は事前に行くから会いましょうと連絡をもらっていた。
10時に集合で、とも言われていた。繰り返すが、その時点で昼である。
母、憤慨。
これを読んでいる皆さんの想像のおよそ5〜10倍の小言を頂きました。
10:0で自分が悪い時、相手をなだめるのは本当に難しい。
ただ自分も本当に申し訳ないと思っていて、弁解の余地とか一個も無く本当に忘れていただけで、しかもたまにやってしまうタイプのやらかしが最悪のタイミングでやって来た。
管理能力の欠如に関しては、ちょっとそろそろ本気で改善に向けて取り組んでいかねばならない。
何より、時間を奪ったと言うことと心理的な圧迫をしてしまったと言うことが申し訳ない。
もののついでとはいえ息子に会うため朝から東京まで来て、一人で何度も電話して待って、連絡が取れないものだからわざわざ自宅まで突き止めてインターホンを鳴らしに来るまでの母の心境の変化を想像すると、ああああと声が出てしまう。
ひたすらに謝ってお昼をご馳走し許してもらったが、大事な用事なのに頭からぶっ飛んでしまうことは他の人と比べて結構ある方だと自覚している。
今日なんかGoogleカレンダーにも予定入ってたのに忘れていた。
どうにかしないとまずい。
僕は偶然ネットに上がっていたドキュメントを見て知ったのだが、かなりの生き地獄的な世界観がそこにはあった。
職能を得ることが出来ず、実績も収入も無いまま両親の収入をあてに引きこもり続ける40代、50代。
それを見てまるで他人事では無いなと肝を冷やしたのを覚えている。
母の周辺でも話題になっているらしく、自分もそうなるのではないか、そうなっても助けてやれないと心配された。
まあそりゃ心配するよな、と思う。
家族には積極的に自分がやっている音楽を聞かせたことはない。
照れ臭いし、一度も応援されたことはないし、家族の中で音楽マニアなのは自分だけだと思っているから。
音楽で喜びを共有出来ないのなら、他のことを一緒に楽しめばいい。
けどそれがどうやら31歳にもなって何をしてるかもわからない、先行き不安な不肖の息子像を作ってしまっているらしい。
まあ、大体は想像の通りなんだけど。
母からは「普通そのぐらいの年だったら」という言い方が頻出した。
自分が普通ではないというのは重々承知の上だが、「普通」という言葉はかなり定義が曖昧で想像力を奪う同調圧力的な言葉だと思っている。
非正規雇用者や低収入者が増える社会において、「普通」とは何か?は所属する環境によっても変わってくる。
もし社会全体の「普通」を定義しようとするならば、過半数を越える数の賛同がある価値観を「普通」とすべきだ。
それ、ゆくゆくは高齢者の常識が日本の常識になってしまわないか?
一方で世の中全体では一部の金持ちと残りの貧乏人という形が出来ているとして、じゃあ貧乏人の価値観が「普通」ということになるのか?
安心を「普通」という言葉で買うような使い方はなるべく避けたいものだと思った。
が、自分の生き方が普通でないことは誰の目にも明らかなので、そのメリットを享受する以上、デメリットも甘んじて受け入れなければならない。
何よりも、我が母が31歳ニートの息子を心配するのは地球が自転するのと同じくらい当たり前のことである。
ただ一つ強く思うのは、世の中に影響を与えたり人を感動させる何かを作るような人が「普通」であったことなど一度もないだろうということ。
今日のブログだって、1,2年後には熱心なファンにディグされて「あのSUKISHAもこんなこと言ってる時代があったんだなあ」なんて言われるようになると僕は信じて疑っていない。
何も動じることなんてない。平常運転です。
早く両親を安心させて世界旅行に連れてってやりたい。ので今日も新曲を作る。
新曲作りがマジで難航中でしんどい。
本日のおべんちゃらは以上。
4/12
CDについて。
クラウドファンディングで資金を調達した拙作「Segment of Cakes」ですが、順調に全国流通へ向けて話が進んでいます。
まじで当たり前の話なんだけど、流通の会社の方とのやり取りも全部自分でしていると細かいタスクがたくさん発生して、とても大変な作業であることに気付く。
気分としては、終わりの見えない掃除をしている感じに近い。
自分としては綺麗にしたつもりが「いやまだ全然やることあるでしょ」と言われてしまいがちなあの感じである。
「このぐらいでいいでしょ、もう十分揃ってるでしょ」と思ってデザインや必要な情報を揃えると、実はまだまだやることがあるとわかる。
キッチンの油汚れを掃除したら換気扇がどうだとか、水回りがどうだとかが気になり始めるわけだ。
やめてくれ、片付けは苦手なんだ、やめてくれ・・・。
クラウドファンディングが終わってからもう随分と日が経っていて、自分としては一刻も早くCDをプレスして参加してくれた皆さんに届けたいと思っているんですが、物事が進むのには思った以上に時間がかかってしまうようです。
会社設立できるかな?と言う、ネット上で必要なフォームに記入してちょっとお金を払うだけで株式会社が設立出来るサイトがある。
CDの流通ももう少しどうにかならないものなのだろうか。
なるわけないわな・・・。
作るだけなら誰でも出来るが、ちゃんと売るとなると話は随分違ってくる。
人対人でプロダクトを売る、しかも著作権が絡むとなると、どうしても関わる人は増えてきてしまうんだろう。
元来の性格で、意志決定のスピートが遅いのが苦手だ。
バンドをやろうとしたこともあるが自分主導のものが一度もうまくいったことが無いのもそれが一つの要因であるように思う。
人が増えるとそれだけで、全体の意志決定の前段階に「伝える」と言うプロセスが発生する。
これが特に音のこととなると難しい。当たり前だが音は言葉ではないからだ。
自分以外の人が関わるということは、ただそれだけでやらなければならないことが増える。
だがその分出来ることも増えていく。
当たり前を当たり前に実感しつつ犀の角のようにただ独り歩むのである。
遅くても6月にはみなさんのお手元に届く予定です。お待ちください。
余談。
我がホームタウン南大沢に不満はほぼ無い。
ただ近所に定食屋とタイ料理屋が無いのと、都心から若干遠いことだけが問題である。
急にカオマンガイやグリーンカレーが食べたくなった時、都心にちょっとした用事がある時などはそこそこガクッときたり辟易したりする。
今年の目標は引っ越すことだが果たして。
本日のおべんちゃらは以上。
4/9
先週末は珍しくキャラに似つかわしくない遊び方をした。
土曜の夜に表参道へ向かい、屋台村的なチルプレイスで飲酒、その後カフェとは名ばかりのグッドチルプレイスへ足を運びグッドなビートとナイスなピーポーとコミュニケイションし、気付けばその足で渋谷のクラブへ。
深夜のクラブなどほぼ初めてである。
しかも知り合いがその日初めて会った人しかいない。
たまに発揮される謎の行動力。要するに寂しがりなのだ。
なんだかんだ朝までうろちょろし、テクノのストイックさに畏敬と戸惑いが入り混じった思いを抱く。
日曜も遊びの約束があったためそのまま渋谷の漫画喫茶で仮眠を取ろうとすると、始発が出ている時間帯にも関わらず漫画喫茶は満員で1時間待ち。
待合場所があるわけでもなく、通路に簡素な椅子が置いてある。
外で待っているのではカウントされないので、呼ばれるまでそこで待っていてくれとのこと。
見れば二人ほど、通路で横になって寝ている。雑魚寝である。
漫画喫茶の通路の床で、人が横になって寝ている。
あまりに見慣れない光景なので苦笑交じりにあれは大丈夫なのか、と問うて見たところ、「通路の邪魔にならなければ仕方ない」との返答が。
東京都内歓楽街の人口飽和とそれに伴い露呈している不快や限界突破、思考停止感の一端を目の当たりにした気がした。
無理めでも実害が実益を越えないと言うのは不思議だなと思った。
次の日は花見と言う遅すぎる名目の下、BBQに参加する。
二日酔いで大して酒は飲めず。
何やら良い雰囲気のお友達の皆さんとアヘアヘ言う。
その後普段は滅多に行くことのない、カラオケなるものへ行く。
何年ぶりになるかわからないくらい久々にカラオケに行ったが、歌と言うのはやはり疲れるものなのだと再認識させられた。
いつもライブを終えるとものすごく疲れるのだが、その疲れと同種のものをカラオケで歌った後に感じた。
アレは普段の運動不足とか体力がないからと言うのもあるが歌うことによって何か生命力のようなものがどこかから発散されているのが原因だなと思った。
しかし楽器のことやピッチのこと、モニターの状況など何も気にせずただ熱唱するというのは存外楽しかった。新しい発見である。
帰り道の電車の中、飲み会帰りの大学生か何かの団体が隣で会話をしていたのが耳に入った。
どう頑張って無視しようとしても聞こえてきてしまうその会話が非常に示唆に富んでいた。
うち一人の婦女子は電話で泣きながら話していた。
元彼と電話しているだとかで、彼女は復縁したいがそれは叶わない願いらしい。
隣で友達の婦女子が彼女を励ましていた。そこまでは普通だった。理解出来る。
恋愛は論理が感情を上回ることのない、いわゆる人間らしさが非常に強く際立つ側面を持つ。
メリットデメリットではないものだ。
彼の感情が彼女の方を向いていないのならば、それは言葉による説得で何をどうこう出来るものではない。
違和感があったのは、向かい側に立った男の態度だった。
彼はその彼女及びその元カップルが重ねた歳月や行為、それに伴う感情の機微を想像している素振り無しに、まるでバラエティ番組で少しきつめのドッキリをお見舞いして悪気無しに謝るかのような態度で適当な励ましを繰り返した。
「ドンマイドンマイ」
「男なんて他に山ほどいるよ」
「いいから荒野行動(スマホのゲーム)やろうぜ」
言葉で説明するのは非常に難しいが、隣で全力で小説に集中しようとする自分の心を乱すほどの不愉快さが彼の態度にはあった。
普段あまり何かにネガティブな感情を感じることは無い。
それ自体が興味を持っている、つまり関わろうとしているという意味であり、自身にとって損な行為だと考えるので意図して興味を持たないようにしているからである。
今になってはもう二度と会うことの無いであろうその彼らの会話とその後にさほど興味はないが、その彼の態度となぜ自分が不愉快に思ったか、には興味がある。
失恋は辛い。
言葉が心を越えない時というのが確実にあって、そういう時は何をするも適わない。
その虚しさは筆舌に尽くしがたいものがある。
あの時こうしていれば良かった、でなければどうすれば良かったのか。
考えても絶対に解決しない問題を思考だけが堂々巡りをする。
誰だってそういう時があるのではないか。
彼は本気で誰かこの人でなければならないと思う人物に心奪われたことが無いのだろうか?
これほど悲しそうに泣いている婦女子に対して、なぜそこまで軽薄な態度を取ることが出来るのだろうか?
人が涙を流すほどの状況を目の当たりにして、何とも思わないのだろうか?
SNSが普及して以降、恥の可視化が促進されたように思う。
非常におっさんくさく頭の悪い妄想だが、失敗に不寛容で挑戦を恐れる国民性はそれによって助長され、ごくごく一般的な若い世代はさらにリスクを取らなくなっているのではないか。
その空気感が、彼から真剣さやうまくいかず悩む人を励ます心を育てる機会を奪い、失恋して泣く婦女子に対するへらへらした態度を作ったのではないか?
というところまで考えたのだが、自分も若い頃はそのぐらい適当だったのではないかと思い止まり、考え過ぎていることを戒めた。
きっと自分にだって、こいつ何で泣いてるんだろう、それより今遊びたいんだけど、などと思ってしまう時はある。
何より彼らは飲み会帰りで、楽しんでいる最中だったのだ。
それに結局は人それぞれであり、彼が本気で恋愛をしたところで自分と同じくらい泣いている婦女子を不憫に思うとは限らない。
人の気持ちを想像するという行為はスキルであり、出来る人と出来ない人がいる。
どちらが偉いということではなく、出来る人には優しい人が多いし出来ない人の方が秀でている分野もある。
自分が彼を不快に思ったのは、自分がしてはいけないと思っていることを彼があまりに当たり前にしていたからに過ぎない。
そこに正しい間違っているは存在しない。
ただ僕は地獄への道は想像力の欠如で構成されている、と思っている。
いつも思うことだが、今回また現実味を増したように感じた。
家路につき一晩寝て目が覚めてみると言いようのない虚しさに襲われた。
そろそろ曲をちゃんと作らねばならない。
それぞれの人にそれぞれの営みがあり葛藤がある。
自分は自分の、営みと葛藤を繰り返さねばならない。
なぜだか知らないが、自分の思考回路はそういう風に出来ている。
本日のおべんちゃらは以上。
4/4
我が愛すべきホームタウン・南大沢の春は非常にチルである。
随分遅くなってきた日没と同時に昼寝から目を覚まし、多くの人が帰路につく途中のアウトレットモールを抜け、ちょっといいスーパーことサカガミで500¥にしてはやけにボリューミーな弁当を20%引きで買い、外のベンチで食す。
前方のベンチではまだ幼い娘二人とその親と思しき夫婦が座って何やら話をしている。
お父さんは恐らく仕事帰りなのであろう、スーツ姿でお母さんからシャツの汚れを指摘されている。
娘たちはまだ普段は仕事で大半が留守の父に甘えたい年頃なのだろう、仕事帰りのお父さんにおんぶや抱っこをねだっていた。
非常に愛おしい、家族の風景。
その後ろでブヒブヒ言いながら弁当を食べる髪の毛ボッサボサのチョビヒゲニート。
南大沢は今日も平和である。
純真無垢な存在と言うのは美しく見える。
最近、人間は多少無知であったり、抜けてる存在の方が可愛く見えるのではないかと感じる。
おバカタレントという存在が淘汰されない理由は、愛らしさとマウンティングを取りたがる人々の承認欲求を満たしている点にあるのだろう。
後者に関しては考えても虚しくなるだけなのでここでは愛らしさについてのみ触れたい。
例えばレペゼン愛玩動物である犬や猫なんかは、ちょっとどころかかなりアホである。
うちのシーザーくんなんかは、猫じゃらし振れば喜んで食い付き、飼い主が立ち上がれば餌だと思って自動給餌器まで即ダッシュである。
決して頭が悪い、と貶しているわけでもなんでもなく、これは彼らの体に見合った大きさの脳なりに一生懸命考えた結果であり、また動物の本能に則した純真無垢な反応なのである。
そして僕はそれを見て、「オイオイさっきメシ食ったろうがよ」と苦笑交じりに通じない会話を彼に挑むのである。
そしてしきりに愛らしいと感じるのである。
ちなみにこのブログにオチは無い。
ある程度の問題提起や主張から、オチの無いただの日記まで、個人的な見解はブログに書いていくことにしようかと思う。
新年度を迎えたと言うのもあるが、SNSで自分を見ている人たちのほとんどは自分の見解などさほど興味が無いと結論したからである。
ありがたいことでもあるのだが、多分みんな僕には純粋に音楽を作ることを求めている。であるならば、余計なことは言わずに欲しいものを提供しようと思う。
ただ生来の性格で自己顕示欲が強く、どうしても何か言いたくなる。
ならば見るか否かを選べるブログでやればいい。そう思った。
故に今後はブログで好きなことを自由に書き並べていこうと思う。
ある一定のスパンで定期的にこういう風に言っては書き始め、段々ペースが落ちて全く書かなくなる、というのを繰り返しているが、この際それは気にしないでおく。
最近最もグッと来たニュースはBEASTARSがマンガ大賞を受賞したことである。
僕のセンスは間違っていなかった。
マンガの感想をブログに書いていこうとした時期もあったが、二回で終わっていた。
今後はオチだとか、起承転結だとか何も考えずに書いていく。
最初からハードルを上げるのは途中でやめてしまうフラグなのだ。
千里の道も一歩から。
本日のおべんちゃらは以上。
4/2
自分は一体誰に認めて欲しいのか。
これはなかなかに難しい。
つまるところ何をするにしても自己承認欲求の充足に行き着くと結論するわけだが、
その欲求を満たすために他者の承認欲求を満たす必要があったりして、そのためにやりたくないことをやったり言いたくないことを言ったりする。
それが仕事や友人や恋人、そう言った関係性の中で成り立っていたりする。
最近果たして自分の幸せはどこにあるのかを考える機会が多くて、しかし考えれば考えるほど無駄な時間を費やしている気がしてならない。
そんなことしてる暇があれば曲を作れとも思うんだけど、時間を費やして手を動かすにもペース作りみたいなものがあって、それが出来ていない時は何をやっても割と無駄だったりする。
はっきりと指針が立っていない状態で行動に出るとそれ自体全部無駄だったりする場合もある。
長期的な視点で見ればその無駄すらも全て無駄ではないって結論することになるんだけど。
本当に、何でも自己分析だとか承認欲求がどうだとか、自分自分自分、いつも自分の話ばかりしている気がする。
ただそれはアーティスト型自意識過剰の一種だとわかっているし、そんな人は軽く探せば下北沢辺りにちょっとしたトライブレベルで存在することも容易に想像がつく。
ずっと家にしかいない生活はなかなかにチャレンジングで普通の人がやったら相当気が滅入るだろうし、楽しくも厳しい毎日を送っている。
ただそのゴールが一体どこなのかが、最近いまいちわからない。
「人は独りでは生きていけない」
「人は最終的には独りである」
相反しているようでどちらも正しいように思う。
言語・非言語問わず、コミュニケーションは相互理解を促進するものでしかなく、自分の考えは自分にしか完全には理解し得ない。
だからこそ面白いし、だからこそ争いも起こる。
誰かとコミュニケーションを取っていなければわからないこと、得られないことも多い。
親密になり過ぎてしまうと逆に裏切られたと感じたり、縁が切れてしまったり、そういう場面も逆にある。
他者に期待し過ぎず、独りで生きつつも人を信頼する。
そんな感覚でありたいと思うが、そのためにはやはり自己分析が必要だと思う。
何かしらの行動がうまくいかない時、原因を外的なものに求めると大抵物事はこじれる。
そういう意味では自分自分自分、という発想は悪くはないのだが、ちょっと頭のおかしい人だと思われがちだし、実際ちょっと頭おかしいのではないかと思っている。
けど人に合わせて話すことなんて出来ない。
馬鹿と天才は紙一重と言うが、これは一般人は自分に理解出来ないものを目の当たりにした時ネガティブな反応だと馬鹿、ポジティブな反応だと天才と呼ぶに過ぎないと思っている。
ちなみに天才って存在については信じていない。
ちょっと頭おかしいと思われるくらいでちょうどよく面白いんだとは思う。
しかし本当に、私は一体どこに向かっているのでしょうか。
今日は春が来たので徒歩10秒の神社の桜の木の下でアイスを食べた。
アイスなんて久しぶりに食べたが甘かった。
おじさんがジョギングで階段を上って行って、高校生ぐらいのガキがチャリで坂を下っていった。
今日も誰とも口を利いてないけど、桜の散り際に花びらがひらひら落ち続けていく様は綺麗だなと思った。
急に思い起こされた曲の中の「あたしさくらんぼ」という歌詞における、若い婦女子特有の感覚を当時刺したワードセンスはなかなかにすごいものがあるな、と思い、そして何かしようとして、忘れて家に帰った。
本日のおべんちゃらは以上。
3/21
ここ最近考えていること。
ハード面での機材が圧倒的に足りない。
クラウドファンディングでおかげさまでたくさんのお金が集まって、色々なものが動き出した。
CDのプレス、MVの制作、グッズ展開、まだわからないけどアナログレコードを切ろうなんて話から、BGMの制作依頼、弟子志願者が増えるなど。
参加してくれた皆さんには本当に感謝していて、リターンを完遂するために色々進めています。
その中で自分がしたいことと、今出来ることのギャップをやはり感じるわけです。
例えばMVなんて、良いものを撮ろうと思ったらン百万なんて予算になっちゃうみたいだし、グッズだって増やそうと思えばその分デザインやら素材やらとにかく原資が必要になる。
それらも重要だけど、問題なのは「良い音楽を作る」と言う自分本来の役割の中で、圧倒的な機材難を感じていることだ。
以前にもブログで書いたけど今の時代DTMを始めるのはとても簡単で、誰にでも間口は開いている。
けれど、クオリティの高いプロでも頷くようなものを作るためには、どうしてもちゃんとした道具が必要になる。
パソコン内で完結するソフトに関しては、プロでも使っているものが頑張れば手が届く。
けれど、マイクや楽器なんかのハード面ではどうしても手が届かないものがある。
写真や映像を撮るのに、編集ソフトがいくら良いものでもカメラが安物ではわかる人にはわかってしまうのと一緒で、良い音を録るためにはどうしてもそれ相応の機材が必要になる。
5万10万になってくるとさすがにポンポンと買うことは出来ない。
ぶっちゃけた話をすると、これまで作ったものに関しても、アコギやボーカル録りにはびっくりするくらいの安物を使っていたりする。
やはり耳の良い人というのはいるもので、最近それを指摘されることが増えた。
ごまかしは効くものではないんだなぁと。
でもクラウドファンディングで集めたお金はほとんどがもう使い道が決まってしまっていて、さてネクストステージに進むためにどうするかと考えていたわけです。
で、そこのあなたはこのブログ読むくらいだから相当僕のことを気にしてくれてる人だと思うんですけど、ちょっとこれどう思うか相談に乗って下さい。
Polcaってアプリがあるんです。
クラウドファンディングの会社Campfireが作ってるサービスで、簡単に言うとカンパアプリなんですが、
「友達の送別会をしたいので○○¥集めたいです。」
と言う人に決まった額を支払うことが出来て、支払うと設定されているお礼を受け取れるってアプリです。
新曲をこれを使って提供出来ないだろうか?と考えています。
具体的には、
先払いで設定した金額を払ってくれた方々にまずどんな曲が良いかをヒアリングします。
大体一ヶ月を目安に新曲を作ります。
さらに、その制作過程も動画か生放送かで週一くらいで公開します。
そんなに大勢でなければ個別かグループか、スカイプで話ながら作っても良いかと思っています。
最終的に出来上がったものをwav形式でお届けします。
出来上がった楽曲は後々何かしらの形でリリースされます。
会費は1000〜2000¥/曲くらいで考えてます。
曲作りはもちろん、それ以外でも様々やらねばならないことがあるので。
こう言うのあったら参加したいって方いますか?
リスナーは新曲作りをリアルタイムで知ることが出来る、僕は機材費が調達出来る。
これぞwin-winと言うやつでは?と思ったんですが、欲しい人がいなければやっても意味が無いので。
「高い」「安い」「こうだったら参加する」など、何でも意見ください。
特に金額面。自分が普段やってることを有料化するので感覚がわかりません。
各種SNSのリプライとかコメントで全然良いです。気軽に言ってください。
*すぐには始動出来ません。まだ先の話です。反応があるようであればSNSでも投げかけてみようかと思ってます。
以上よろしくお願いします。
12/29
2017年を振り返るブログ。本日は人生編。
明日はコンテンツ編になります。
まず今年を振り返るに辺り、去年の今日のブログを読んでみる。
この頃はまさに、シンガーソングライター池澤寛行としてEP「社会不適合者の独白」やそれにまつわる動画を作る活動が山を越えて、さてこれからどうするか、といった感じだった。
当時、というかこのブログ以降三ヶ月くらいは、自分が本気でイイと思えるものを作ることが出来た満足感に対して、周りの評価が全く付いて来ないことにとても不満を感じていたのを覚えている。
ライブハウスや店に音源を配って回って、SNSで宣伝して、それでも大した反応はなくて、弾き語りでライブをしてもお客さんも特に増えたりいい反応をくれることもなくて、といった感じだった。
もちろんなるべく各種レーベルにも音源を送るも、反応はゼロ。
ほとんど無いとかそういうレベルではない。ゼロだった。
それに比べると今の音楽性はまだ反応がいい方ではあるなと思う。
相変わらず各種レーベルから反応は無いけど。色んな人が自分に気付いてくれる大きなきっかけになっている。
それだけでも大きな前進になっている。
そんな去年に比べて、今年は大きな一歩となる一年だったと思う。
何よりやはりダンスミュージックに着目したのがよかったのだと思う。
ブログの最後の方でも綴っているように、今年一年はやはり世間一般的に見てもダンスミュージックの年だった。
SUKISHAを夏に始めて以来、多くの人に反応をもらえたのはその流れに乗れたからなのだと思う。
実際、8月頭に活動を始めてからの動画の伸び方、SNSでの反応は正直予想を遥かに越えていた。
「どうせまた誰も気付いてくれない」と思っていたのに、これまでとは全然違う速さで広がっていった。
気にしてくれる人が増えて、楽曲制作の依頼も増えた。
弟子にしてくれという人すら出てきた。
環境が一変したとまでは言わないが、いい感じに前に進んでいる感じはしている。
(楽曲制作依頼、弟子志願に関してはお気軽にDMやメールでご相談ください)
そして今年は、人との関係も考えさせられる年になった。
私事で恐縮ですが、31歳引きこもりニートのSUKISHAさん、2017/12/29現在でもう8年半ぐらい恋人がいません。
そんな私、今年4年ぶりくらいに人を好きになって、夏にフラれました。
今も結構悲しんでますが、それまで好感情だったものが叶わなかった故悪感情になってしまうことって多分人間関係において最も悲しい出来事の一つだと思うので、フラれた彼女には今もこれからも恒久的に幸せでいて欲しいと思っています。
それを実現させる人間が願わくば自分であって欲しかった。
恋と二日酔いはもう病気認定でいいなって思いました。
昔からそうだけど、人を好きになると頭がおかしくなる。何も出来なくなる。
こんな思いをするのはもうたくさんだなって思ったけど、きっとまたしてしまうんでしょうね。
世の中の真っ当に恋をしている人たち、及び両想いになって付き合っている恋人・夫婦たちには尊敬の念しかありません。
それにしても久しぶりに人を好きになれて、すごく新鮮というか、変な感じだった。
あの身体中の細胞が全力で喜んでる感じはほんとにすごい。
つくづく人間はホルモンの奴隷だなと思った。
閑話休題。
最後に今後の長期的な展望に関してです。
今年色々な人とコミュニケーションしニートとしてサヴァイヴしていく中で、自己分析をさらに進めることが出来ました。
自分は一生かけて何をやっていきたいか?というのも今年は明確になったなと思います。
僕の大きな目標は、世界で通用するクリエイターになることです。
Jポップ育ちなので国内市場にも執着心はあります。
まずは国内でちゃんと評価されたい。具体的にはキリンジくらいの実力派を目指したい。
星野源氏やsuchmos、米津玄師氏みたいなメインストリームの売れっ子になるつもりは実はあまり無いです。
その次はやっぱり世界に挑戦したい。
と言っても別に全米を泣かすようなヒーローになりたいわけではない。
本当に好きなものを作ってこれが自分だと全力で主張して、自分が尊敬する人たちに突き付けて、イイネと言われたい。
僕はそのために生まれてきて、音楽をやっているんだと思います。
世界の頂きはまだまだ遠い。月並みな言葉だけど、一生挑戦者でいたいです。
そしてそれすらも叶うようであれば、活動は継続しつつ、あとは夢を実現させたいと思っています。
目標と夢って違うと思う。
目標は長期的には大きく、短期的には小さく設定して小さい成功を繰り返せばいつか果たせるもの。
夢っていうのは、頑張っても叶わない可能性がある。
僕の夢は、好きなものに没頭して生産する才ある人たちが、少なくとも死なずにその活動のみで暮らしていける仕組みを作ることです。
好きなことだけやりたくて、社会に適合出来なくて表現活動を始めた人が大半なはずなのに、そういう人たちが集まるとまた別の社会が出来てなぜかみんながその見えない慣習やルールを守れと圧力をかけてしまう。
好きなことだけやっていたいから、と会社員に代表されたある程度暮らしが保証された労働方式を放棄し、先の見えないアルバイトや派遣社員をしながら活動していたら、いつの間にか自分が何をしたかったのかわからなくなってしまう人たち。
少しずつ年を取るにつれ、周りからは表現をする人は減っていき、自分は正しいと感じているはずなのに周りがみんな自分と違うことを正しいということによって認知的不協和に陥ってしまい、それでも歯を食いしばって活動を続ける全ての才あるクリエイターたち。
僕はそういう人たち全員に、「大丈夫、お前才能あるよ、才能さえあれば生きていけるよ」って言える仕組みを作りたい。
これから先の未来は、生活にかかるコストはさらに減っていくはず。
芸術や娯楽コンテンツの創造に関わる人たちは、もっと自分に自信を持っていい。
僕は日本から、もっといい音楽、いいコンテンツが国内、世界に発信される環境を作りたい。
そしてその切磋琢磨の中で、自分もいいものを作って、ほらやっぱり俺が一番かっこいいだろ!って言いたい。
創作に携わる人の中で、生きづらいって思っている人を減らしたい。
まずは来年、いい曲を作りまくります。
そして音楽好き達が放っておけないような状況を作る。
皆さんには31歳引きこもりニートがより大きな舞台へ進出し、活躍していく様を楽しく見守って頂けたらと思っています。
もちろん僕一人の意志ではどうにも出来ない大きな流れの中に巻き込まれる可能性もあると思うので、この展望は2017年末現在のものでしかありません。
が、なるべく自らの意思決定で、前に進んでいきたいと思います。
これまでもそうだったし、それで前進を続けてきた自負があります。
そしてそれを応援し続けてくれている友人たちを心から誇りに思います。
何か高まってしまった。さて年末年始モードに入りましょうか。
明日は今年聴いた音楽、読んだ漫画について振り返りたいと思います。