怠け者は今日も眠る

-ディスポエマーの日常-

8/15

自分が自分であることから逃れることは誰にも出来ない。

基本的に、人は常に変化し続けるものだと思っている。

多かれ少なかれ、長期的短期的、程度の違いはあれど、微弱でも少しずつ人は変化する。

現状維持というのは本質的には不可能で、ミクロに見てみればそれは必ず好循環か悪循環に向かっているものだと。そう思っている。

だからその変化し続ける自分というのを受け入れるために、反対意見やdisであろうと、まるで自分と食い違った意見でもまずは聞いて考えてみることを大事にしている。

 

幸いにも、自分には多方面に世話を焼いてくれる人がいる。

思ったことを言うと、「それは違う」だとか、「もっとこうした方がいい」だとかそういうことを言ってくれる。

それを検討考慮して、自分のやりたいこととのバランスを取って、じゃあもっとこうしてみよう、と別のアプローチであったり作風であったり考え方であったりを取り入れてみる。

そしてそうしてみると確かに手応えが違ってくる。つくづく自分一人に出来ることなどたかが知れてる。そう思う。

 

しかしそうなってくると、結局自分のやりたいことってなんだった?

このやり方でもっと大きくなって成功して俺は楽しいんだったか?

という疑問はもちろん湧いてくる。それまでのやり方を変えるわけだから。

 

俺の作りたいものは、誰かに届けたくて作っているんだったか?

もっと自分の根源にある、「自分は何者でありたいのか?」という問いを、

人生の中で最も感銘を受けた音楽という素晴らしい文化を使って、発信したいのではなかったか?

屈折した、鬱屈した思春期。

苦しんでいる家族を見て「この人たちは何のために、何がしたくて生きているんだろう」とまるで他人事のように俯瞰で見つめていたあの頃に、

最終的に自分に返ってきた「じゃあお前は何がしたいの?」という問いに、

10年以上経った今でもちゃんと「俺はこういう人間だ、これが俺なんだ」って言いたくて、だから音楽作ってるんじゃないの?

届けたい相手なんて元々いたか?

お前は誰かにこの曲イイネって言われたくて作ってたのか?

などと思いを巡らせてしまうタイミングというのはもちろんある。

 

だがしかし、発信する以上人に評価されたい、気付いてもらいたい、いいと言ってもらいたいという気持ちは当時にしたって今にしたって当然に発生するもので、

こういう考え方は多分子供じみた感傷に過ぎないのだろう。

気持ちやイメージの問題でしかない。

要するにただの無い物ねだりで、何とも自分らしい下らない考え方だ、とも思う。

 

変化し続ける自分を受け入れているはずが、相変わらず自分らしさというやつを感じるというわけだ。

体の全ての細胞は三ヶ月で全部入れ替わってしまうという。

それでも我々は同じ生き物として生きていく。

どんなに考え方が変化しようと、どんな価値観に自分が影響を受けようとも、

自分が自分であるということから逃れることは誰にも出来ない。

最終的に全くの別人になってしまったとしても、やはり自分は自分でしかない。

交友関係が完全に変わってしまったとしても、貧乏だろうが金持ちだろうが、根底にある人間性というのは三つ子の魂云々というやつなのだろう。

 

何歳になったって、自分は他者から学びたいと思うし、変化したいと思う。

よく「その年になってそれならもうその人は変わらないよ」なんて言うけど、俺はそんなことないと思う。

誰だって、いつだって望めば、受け入れればきっといい方向に変われるはずなんだ。

その一つの証人になれたらと思う。

それでも自分であることはきっと変わらない。

俺は変化し続ける一つの個性であり続けたい。