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自分は一体誰に認めて欲しいのか。
これはなかなかに難しい。
つまるところ何をするにしても自己承認欲求の充足に行き着くと結論するわけだが、
その欲求を満たすために他者の承認欲求を満たす必要があったりして、そのためにやりたくないことをやったり言いたくないことを言ったりする。
それが仕事や友人や恋人、そう言った関係性の中で成り立っていたりする。
最近果たして自分の幸せはどこにあるのかを考える機会が多くて、しかし考えれば考えるほど無駄な時間を費やしている気がしてならない。
そんなことしてる暇があれば曲を作れとも思うんだけど、時間を費やして手を動かすにもペース作りみたいなものがあって、それが出来ていない時は何をやっても割と無駄だったりする。
はっきりと指針が立っていない状態で行動に出るとそれ自体全部無駄だったりする場合もある。
長期的な視点で見ればその無駄すらも全て無駄ではないって結論することになるんだけど。
本当に、何でも自己分析だとか承認欲求がどうだとか、自分自分自分、いつも自分の話ばかりしている気がする。
ただそれはアーティスト型自意識過剰の一種だとわかっているし、そんな人は軽く探せば下北沢辺りにちょっとしたトライブレベルで存在することも容易に想像がつく。
ずっと家にしかいない生活はなかなかにチャレンジングで普通の人がやったら相当気が滅入るだろうし、楽しくも厳しい毎日を送っている。
ただそのゴールが一体どこなのかが、最近いまいちわからない。
「人は独りでは生きていけない」
「人は最終的には独りである」
相反しているようでどちらも正しいように思う。
言語・非言語問わず、コミュニケーションは相互理解を促進するものでしかなく、自分の考えは自分にしか完全には理解し得ない。
だからこそ面白いし、だからこそ争いも起こる。
誰かとコミュニケーションを取っていなければわからないこと、得られないことも多い。
親密になり過ぎてしまうと逆に裏切られたと感じたり、縁が切れてしまったり、そういう場面も逆にある。
他者に期待し過ぎず、独りで生きつつも人を信頼する。
そんな感覚でありたいと思うが、そのためにはやはり自己分析が必要だと思う。
何かしらの行動がうまくいかない時、原因を外的なものに求めると大抵物事はこじれる。
そういう意味では自分自分自分、という発想は悪くはないのだが、ちょっと頭のおかしい人だと思われがちだし、実際ちょっと頭おかしいのではないかと思っている。
けど人に合わせて話すことなんて出来ない。
馬鹿と天才は紙一重と言うが、これは一般人は自分に理解出来ないものを目の当たりにした時ネガティブな反応だと馬鹿、ポジティブな反応だと天才と呼ぶに過ぎないと思っている。
ちなみに天才って存在については信じていない。
ちょっと頭おかしいと思われるくらいでちょうどよく面白いんだとは思う。
しかし本当に、私は一体どこに向かっているのでしょうか。
今日は春が来たので徒歩10秒の神社の桜の木の下でアイスを食べた。
アイスなんて久しぶりに食べたが甘かった。
おじさんがジョギングで階段を上って行って、高校生ぐらいのガキがチャリで坂を下っていった。
今日も誰とも口を利いてないけど、桜の散り際に花びらがひらひら落ち続けていく様は綺麗だなと思った。
急に思い起こされた曲の中の「あたしさくらんぼ」という歌詞における、若い婦女子特有の感覚を当時刺したワードセンスはなかなかにすごいものがあるな、と思い、そして何かしようとして、忘れて家に帰った。
本日のおべんちゃらは以上。