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夏の終わりに感じる喜びと幸福の絶対性・相対性について。
先ほど新曲を作るのをサボっていることを頭の隅で感じつつ缶ビールを2本ほど飲み干してコンビニへ酒の買い足しへ向かう道すがら、夜風の涼しさについに夏が本格的な終焉を迎えようとしていることを感じた。
皮肉なことに、我々は夏が無ければ夏の終わりを喜ぶことが出来ない。
夏が存在しなかったら、まとわりつくような湿気や歩くだけで汗をかいてくるあの暑さに対する最悪な気分と、その不幸からの解放を感じることはないのだ。
カタルシスとは抑圧からの解放を意味する。
夏の終わりはある種それに近い喜びを醸し出す。
そう考えると地球はすごい。
四季の演出によって我々は暑さからの解放 a.k.a. 秋の訪れ、寒さからの解放 a.k.a. 春の訪れと、生きているだけで少なくとも二種のカタルシスを体験することが出来る。
大変にドラマチックな惑星だ。
さて、ここまで書いてきてわかる通り、今日のトピックももちろん大した意味はない。
人間の感じる幸福には絶妙なバランスで絶対性と相対性が共存している。
「贅沢」という言葉がある。
自分が贅沢だと感じるものに、このブログを読んでいる皆さんはどんなものを思い浮かべるだろうか?
恐らく、大半の人が「いつもよりちょっといいものを体験すること」を思い浮かべるのではないだろうか。
いつもの生活と比べて、相対的にいいものを消費しようとする時、きっと人は贅沢感を得る。
第三のビールやストロングゼロがYEBISUや赤ワインに変わる。
アメリカ産の牛肉が国産和牛に変わる。
或いは、旅行という行為に感じる非日常。
僕は旅行にあまり興味がない。
準備が面倒だし、どこに行っても食い物も酒も大体うまいし、景色の綺麗さの違いがわからない。
田舎はどこに行っても田舎だし、どこに行っても文化的なものは素晴らしいから。
世の中には実は面白い人がたくさんいて、そういう人が面白いものを作っているのはどこに行っても同じだから。
どうしても知らない土地で知らない場所を探すのは面倒になってしまう。
旅行が趣味の友人というのは、存外多い。
何が楽しいのかはもちろん聞いたことがあり、その質問に対する返答の多くは「非日常を感じられるから」という意味合いであることが多い。
つまり、「普段の自分の生活とは違う何か(欲を言えばいつもよりちょっと良いもの)を消費したい」と考え、そしてその願望を叶えることに喜びを得ている。
要するに、人の喜びの多くには、相対性=何かと比べて良い悪いという物差しが含まれている。
比べることで得られる優越感、劣等感はもはや人の性と言ってしまっても良いのだろう。
もちろんそれだけかと言えば実はそうではない。
国産和牛を食べてまずいと言っている人間を僕はあまり見たことがない。
経験値ゼロの人間が消費しても素晴らしいものというのは確実に存在する。
特に食に関して言えばそれは非常にわかりやすく、例えばラーメン、カレー、寿司なんかは代表的だろう。
ただそれが、毎日同じになってしまうと途端に我々はその価値を見失う。
どれだけうまかろうが毎日同じものを食べていて幸福を感じられる人間はそういない。
結局はバランス感覚なのだ。
反対に、どれだけ一番を取り続けようとも飽くなき探求をやめないような人も存在する。
人と比べることに意味はないと考え、自分の好きなものを追求することの喜びを知っている人たちだ。
僕はどちらかと言えば、そういう人のことを好きだなと思う。
そういう人は、努力の価値を知っているから、誰かのことを何かと比べてバカにしたりしない。意味がないから。
人と比べられることで価値を得ている事実はあっても、それが目的になっていない。
そういう存在にやはりなりたい。
世の中には人と違うことで価値が高まるものと低くなるもの、人と違わないことが価値であるもの、そうでないものが存在する。
文化とは大衆に定義されるものであり、それはいくら誰かが文句を言ったところで変わらない。
その事実を受け入れつつ、それでも反骨心を持って自分を貫く人って、グッとくるよね。
そんな人間に自分もなりたいよね。夏は終わってくれて本当に嬉しいよね。
本日のおべんちゃらは以上だよね。