怠け者は今日も眠る

-ディスポエマーの日常-

6/4 月次報告

札幌とその他バタついてしまったが5月の振り返り。

5月公開したものをツイッターより抜粋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SNSの数字推移。

youtube / 2475→3181

instagram / 1151→1262

twitter / 3788→3920

 

年36曲、という今年の目標はマイナーチェンジというべきか大幅路線変更と言うべきかいつの間にかその体をなさなくなったが、基本的にはやるべきことに向かって進んでいる毎日。

4,5月は春と言う浮ついた暴力に打ちのめされ、また自らが課した新曲への精神的ハードルの高さ及び、その高さから逃避する目的でサボってみるのだが根が無駄に真面目なのでそのサボっていることに罪悪感を感じて行為自体を楽しむことも出来ず、結局納期ギリギリになってやるざるを得ない状況に迫られようやく着手し、結果出来上がったものを愛でて「やれば出来るんだからさっさとやればいいのにって毎回言ってるよね」といつも通りの反省を行う流れに落ち着いた。

この一連の流れからは「人はそんなに簡単に変わることは出来ない」、とも「人は本当に変わろうと思えば実行に移せさえすれば変わることも出来る。着手継続が命」とも言え、学びは特にない。

 

やはり思うのは、夏休みの宿題をコツコツ毎日やれていた人間は強い、と言うこと。

姉はまさにそのタイプで、一番最初に生まれた子だから厳しく躾けられたみたいな話は聞いたことがあるし、自分は三番目の末っ子なので可愛がられたし割と適当だったと言う自覚もある。

高校の頃数学の先生も学年集会で「東大に受かる子はみんな段取りがいい」と言っていた。

優秀な人間は計画を立てるのがうまいし、「準備が8割」と言う名言もある。

 

自分のようなそういった素養を持ち合わせていない人間は、誰かちゃんと管理してくれる人に突き上げられるのがちょうどいいのかもしれないと感じることもある。

死ぬか生きるかの瀬戸際くらい追い詰められていないとやらない時もある。

でもノリにノっていて作り続けちゃう時もある。

 

今やらなければ死ぬ、と言うほどではないが、性格的に何もせず誰とも会わずにいると「何のために生きているんだ俺は」となりがちなので色々と気を付けていきたい。

6月は忙しくなりそうなのでうまく生き延びていきたいところ。

 

話は変わるが、札幌に向かう道すがら飛行機の中で映画を見た。

もらい事故的なネタバレはすることもされることも割と嫌いなので何の映画かは言わないが、途中までは面白かったものの、最後の最後で「いやそれはないだろ」となってしまった。

簡単に言えば、リアリティのある内容の映画なのだが、包丁で刺された人間がさらにロープで首を締められ、かなり長い間その状態にあったのだがまだ生きていて、しかも苦しみながらもずっと喋ると言う状態が続いたのを見て、「いやその血の量で首まで本気で締められてたらもう死んでるし喋れるわけないだろ」と言うツッコミをしてしまったと。

 

このことからそうなんだなあ、と思ったことが2点あった。

一つは、創作には誰もが一定のリアリティを求めていて、作り手は皆そのバランス感覚を模索していると言うこと。

二つは、科学技術やネットの発達によって世の中全体の考証が厳しくなってきていると言うこと。

 

前者は、あくまでエンターテインメント作品を作っている以上、現実には起こり得ないようなことを描かなければいけない時がある、と言うのがキーになっている。

例えば被写体に関して考えてみても、「普通そんな体制取らないだろ」と言うものがかっこよく、美しく見えたりもする。

その割に虚構の世界に現実性を求める向きというのは確実にある。

極論言ってしまえば「リアリティがない」なんて批判は「作り物なんだから当たり前だろうが」で終わりなのだが、でもそれではつまらないというのもわかるわけで、例えば人が死ぬところを本気でリアルに撮影なんかしたらトラウマ残るレベルで気持ち悪いだろうし見てられないし炎上案件待った無しであろう。

消費者はマクロで見れば非常にわがままで、全員を満足させることなど絶対に出来ないのだなと改めて感じた。

 

後者は以前から感じていたことなのだが、例えばジョジョのアニメなんかを見ていても「いやそんなわけなくね?」というツッコミをどうしても入れたくなってしまう場面がいくつもあって、それは恐らく自分が大人になったからではなく現代的な所作の一つなのではないかと思ったという話。

推理小説で人を殺そうとすると科学捜査の質が高まりすぎて普通には出来ないのでクローズドサークルを作るしか無くなってしまった、という話も聞いたことがあり、何となくなあなあで作ってると昔よりも消費者に手抜きがバレやすくなっているなと。

旧来型のコンテンツ、つまり映画や小説、音楽なんかは入念に力を込めて作らないと消費者に刺さらない。割に一つ一つに支払われる対価は下がっている。

逆に新しく出てきたyoutuberなんかのコンテンツはありのままを見せることが多く、故に嘘がないから考証が必要ない。

もしかしたらだからSNSスマホ時代に受け入れられてるのかもね。

 

そしてレビューやコメントに顕著に見られる、「ここで萎えた」「つまらない」などの感想。

アマゾンでその映画のレビューを見てみるに役者を呼び捨てにして明確に「つまらない」などと言及する行為、或いは口汚く罵るその様は、これまで日常的にクローズドなコミュニティで行なっていたことを、無意識にインターネット表層でもしている人たちによって為されているのかもしれない。

要するにそういった人たちは環境に順応しているようでしておらず、対人対面であれば「失礼にあたる」と言うのがわかるから直接は言わず裏でこそこそするのだが、インターネット上ではそのよく言えば素直、悪く言えば下品で思考停止的な感想を、誰でも見れる場所に書いてしまうのだろう。

正直言って、「ただ同然でコンテンツを消費しているだけの割になぜこんなに偉そうに批評したつもりになれるのだろう」と思ってしまうよね。

 

ただ少し同情もしてしまう部分はあって、多分そういう人は多分映画はもちろん何かコンテンツを本気で作って人の目に晒されたり、それによって評価されたり自己肯定感を得たりしたことがないんだろうなとも思う。

というかそもそも、アマゾンのレビューもYouTubeのコメントもヤフコメも、その他たくさんある「うわーこんなこと普通言うか?」案件と言うのは、マイノリティ中のマイノリティがしているはずで、人類全体がポジティブな意見よりネガティブな意見に目がいってしまいがち故に気になってしまうわけだから、そう言うの書いてる人たちには「ああ、そうでもしないと構ってもらえないんだね・・・」という感じでもう同情前提で接する形にはなるわけだけども。

 

だって見た感想って普通は友達とか家族恋人とシェアするもんな。

一緒に見たわけでなくともいくらでも連絡なんて取れるわけだし。

わざわざ誰でも見れる場所にしかも批判的な意見書き込むって相当寂しいんだろうなって思うと、虚しくもなるよね。

 

まあつまり全体的には、時代が進むにつれて人の心理的な動きが可視化され、その見え方も変わってきてるね。面白いねって話です。

 

読んで面白かった漫画。

 先日ブログで書いて、読みたくなってまた読んでしまった。

本当にいい漫画だね。ラストが少し物悲しいけど。

いつの時代も足を引っ張るのは文化水準の低さ由来の想像力欠如型の人々だよねって思ったよ。

やっぱり大事で、かつ一番難しいのって教育なんだよなあ。

 

本日のおべんちゃらは以上です。