怠け者は今日も眠る

-ディスポエマーの日常-

5/21

人類最大の敵は果たして何か。

古谷実先生の初期作品が好きで、特に「僕といっしょ」「グリーンヒル」「ヒミズ」辺りはやはり何度読んでも面白いなと思う。

特にグリーンヒルが大好きで、その作中で主人公が「人類最大の敵"めんどくさい"とどう戦っていくか考えなきゃなあ」というようなことを言う。

もっと若かった、仕事とは、働くとは何か、社会とは何かと言うことが当たり前にわかっていなかった、普通の学生だった頃の自分は、古谷実作品に少なくない影響を受けていた。

だから、僕も人類最大の敵は「めんどくさい」なのだと思っていた。

しかし最近、それはちょっと違うのではないかと思い始めた。

 

実は「めんどくさい」と言うやつは、恐らく毎日仕事をしている皆さんならばわかってもらえると思うのだが、責任感や報酬を与えることで克服出来る。

一人ではめんどくさくてやらないことは、他者に頼りにされたり、他者から圧力をかけられることによって案外出来てしまうものだ。

大量のサラリーマンの皆さんが毎日満員電車に揺られて通勤することがある意味では証左と言っても良いだろう。

やりたくなくても、好きなことではなくても、大体の人は責任と報酬を与えられればこなせてしまう。

 

では一体人類最大の敵は何なのか。

僕は最近、これは「うっかり」なのではないかと考えている。

うっかりから生じるミスは絶対に無くならない。

大事なことをうっかり伝え忘れるだけで、誰かの頑張りが完全に無駄になったり、誰かが本気で怒ったりする。

めんどくさいは回避出来るが、うっかりは回避出来ない。

 

しかも恐ろしいことに、うっかりは人を殺しさえする。

交通事故の多くはうっかりが原因だろうし、衝動的な殺人だって言ってしまえばうっかりに近いものがある。

我々は、うっかりしてしまうことが原因で奪ったり奪われたりしているのではないか。

 

そう考えたのも先日役所に行く用事があり、時間と曜日を確認し、片道一時間使って向かったのに閉まっていた、と言うことがあった。

ここ最近で一番腹が立ったし、どうしようもない気持ちになった。

しかも伝えた本人に悪気はない。怒ろうにも怒れない。役所にクレームつけようなどとも微塵も思わない。

徒労、と言う言葉が脳内を埋め尽くし、どこにぶつけて良いかもわからない暴力的な衝動が胸の内からとめどなく溢れてくる。

そんな状況、ここ最近本当になっていなかった。

僕は時間に余裕がある方だから良い、だがこれが別の人だったら一体どうなっていたか。

そう考えると、うっかりの恐ろしさは計り知れない。

この場合は確実に「めんどくさい」より「うっかり」の方が人を不幸にしている。

「誰もが最善を尽くしているはずなのに誰も幸せになれない」と言う状況は生じてしまうものなのだ。

 

このことに思い至って、こと国内においては「めんどくさい」よりも「うっかり」の方がよほど凶悪なのではないか?と考えた。

日本人は良くも悪くも真面目な人が多く、「ちゃんとせねばならない」「まともに生きねばならない」と思っている人が多い。

その心持ちから考えても、「めんどくさい」に対する耐性は高いのではないか。

一方で、他者の「うっかり」を被ったり目の当たりにすると、ある種病的なまでにディスり始めると言う特性もあるように思う。

「自分はそんなミスはしないし、世の中もちゃんとしているのだからミスは責められるだけの理由がある」

そう思っている人が多いのではないだろうか。

人の失敗に不寛容なのは、「めんどくさい」に頑張って勝ちすぎているからなのではないだろうか。

 

心理学の用語には「他者信頼」と言う言葉があるそうだ。

これは誰でも善人として信じて生きていきましょうねと言う意味ではないらしく、「お互いが不完全であると言う前提に立つ」ことを意味するらしい。

この価値観に僕は非常に強く共感を覚える。

誰だってミスはする。ミスをした人間を吊るし上げることは、仮に自分がミスをした時にも吊るし上げて良いですよ、と言っているのと同義だ。

コードギアスルルーシュくんが「撃って良いのは撃たれる覚悟があるやつだけだ」と言っている。ならば誰も撃とうとしなければ良い。そう言うことだろう。

 

だって本当は誰も撃たれたくなんかないでしょう?

「自分はミスなんかしないから大丈夫」って思ってる?

敷かれたレールの上でなるべく失敗しないように気をつけながら、失敗したやつをせせり笑って生きていくことが果たして幸せなのか?

やったことがないからわからないものと比べて、今の幸福度が高い低いと語ることは出来ない。なのに自分の幸せはこれだと信じたがるのは、失敗した時救済手段が存在しないからだろう。

皆で救済してやりゃ良いじゃん。自分だってとんでもないミスすることあるんだからさ。

誰だって不完全なんだからさ、そりゃ怒っちゃう時もあると思うけど、おおらかでいたいよね。

挑戦無くして成功も失敗も無い。失敗を責めるようでは成功も抑制してしまう。

 

「うっかり」に勝つのは寛容さではないかと思う。

聖書のこともキリストのことも大して知らないが、「罪の女」と言う一説で、罪を犯した女に対して人々が石を投げる場面でキリストがこんなことを言うそうだ。

 

あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。

 

全く言い得て妙だ。

地獄への道は想像力の欠如によって構成されている。

失敗に不寛容な社会、その先の道はもしかしたら地獄へ続いているんじゃないだろうか。

願わくば、全ての人が「めんどくさい」に意志の力で打ち勝ち、他者の「うっかり」を容認出来ますように。

久しぶりにグリーンヒルを読み直そうか。

むしろ古谷実先生の最近の著作を読まねばならないな。

 

本日のおべんちゃらは以上。

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5/7

そば茶の淹れ方で学ぶ「人は論理より感情を優先しがち」問題。

 

身体中が筋肉痛で痛い。

腹筋ローラーの効力と言うよりも少し運動しただけで身体中が筋肉痛になる自らの筋力不足にため息混じりの驚きを感じている。

 

ここ最近そば茶を愛飲している。

きっかけは我が愛すべきホームタウン・南大沢にあるちょっといいスーパーにペットボトルで売っていたことだった。

僕はカフェインを摂取すると体調を崩すため、基本的にノンカフェイン飲料しか摂取しない。

エナジードリンクの味は好きで、カフェインの存在について真剣に考えていなかった頃はモンスターを飲んでは気持ち悪くなっていた。

飲む度何故こんなに気持ち悪くなるのだろうと思っていたところ、カフェインが原因だったらしい。

それに気付いて以来モンスターは飲んでいないし、気持ち悪くなるのは二日酔いの時だけだ。

 

そしてそのちょっといいスーパーでは、大体弁当を買って食べる。

500¥にしてはやけにボリューミーで、動物性タンパク質と炭水化物と脂肪を前面に出した、「学生はこれを求めてるんだろ?オラオラオラ」とでも言いたげなとても素敵な代物である。

スーパーと言うのは往々にして目当ての物以外も購入させるよう意図して導線を用意しているものだ。

当然弁当売り場の近くには飲料売り場がある。

そこで僕とそば茶は運命の出会いを果たした。そば茶 meets SUKISHA。

なんてロマンチック。

そんな素敵な出会いと共にそば茶の美味しさに気付き、ペットボトルで一本ずつ買うのはコスパが悪いと言うことで国産韃靼そば茶150gをアマゾンでポチったわけである。

 

家でそば茶を淹れるようになると、なかなか興味深いことに気付く。

一杯飲むだけならば湯飲みにそばを入れてお湯を差し、数分待つだけだ。

しかし、一日家にいる性質上飲み物は沢山作っておきたい。

故に鍋に湯を沸かし、そこにそばを入れて沢山そば茶を作ることになる。

 

そうしてみると、何やら違和感がある。

お茶を鍋で沸かすと言う行為に。何ならおたまで掬って味見すると言う行為に。

自分の中の「お茶は急須で入れて湯飲みで飲むもの」と言う先入観及び感情が、あまり美味しくないと訴えかけてくるのである。

 

待て、待つんだ。

どんな作り方をしたってそば茶はそば茶じゃないか。

成分と作り方が同じなんだからうまいに決まってる。

マグカップで飲もうが湯飲みで飲もうがおたまで飲もうが、そば茶はそば茶だ。

 

そう思いたいのに、おたまで飲むそば茶はやはり味気なく感じてしまうのである。

普段料理をする時の動作と同じだからか、「お茶を飲む」という行為とどうしても結び付かない。

戸惑いを感じつつも冷めるのを待ってマグカップで飲んだ。

 

さて、僕はこの体験は非常に示唆に富んでいると感じた。

僕は普段「どんなに嫌なやつだろうがいい音楽を作るのならば素直に賞賛も拡散もするし何なら力になりたい」という、音楽至上主義を信条としている。

 

逆に、承認欲求や感情を前面に出すタイプの人は正直苦手だ。

「あいつは気にくわないから音楽も聴かない」なんて言い出された日には、お前は音を聴いてんのか、人を見てんのかどっちだ?と問いたくなる。

良いものは嫌なやつが作ろうが素直に認めて広げていく。

逆に良くないものは良い人が作っていても協力は出来ない。

文化人たるもの、そうであるべきではないか。

 

しかし、音楽や自分に関して言えばこのスタンスは変わらないのだが、全ての人にこれを求めるのは無理があるのだと、今日そば茶に気付かされたわけである。

 

誰だってイメージに引きずられる。

論理的には正しかったとしても、感情がそちらを向いていなければ是と出来ない事柄と言うのは、やはりあるのだ。

 

さらに言えば、コンテンツの良さは人の感情によって増幅も減退もする。

そのメリットを受けている以上、デメリットに文句を言うことは出来ない。

まあ普通はよほど詳しくて好きなものでないとコンテンツだけで判断することなんて出来ないよね、と。

最高級のイタリアンをムカつくやつと食べるよりも、気のおけない友人とマックを食べた方がうまい。

そう言うことなのだろう。何だか腑に落ちてしまったわけだ。

 

そば茶はおたまで飲むより湯飲みで飲んだ方がうまい。

そば茶マニアではない僕は感情に引きずられてそう感じてしまう。

 

ちょっと不思議な気持ちになるので、今度お茶を淹れる機会があったら鍋で淹れてみておたまで飲んでみるといいよ。

不思議な気分になれます。

 

本日のおべんちゃらは以上。

 

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5/6

ここ最近、食の楽しみを謳歌しすぎた感があり、多少太った。

ので、筋トレ及びダイエット活動を始めようと思う。

別に食を楽しむことも太ることも大した問題だとは思っていない。

いないのだが、先日ライブ会場で話した共演者のお客さんが、トレーナーやら整体師をやっているらしく自分の体型を見てどう思うか聞いてみた。

日がな一日している仕事の話を職務を終えてやってきている人に振ると言うのも心苦し具はあるものの、好奇心には勝てないのが人の性である。

 

曰く、

「筋力無さそう」

「骨格歪んでそう」

「腰痛いって言ってそう」

「下っ腹出てそう」

とのことである。

 

黙れ!その通りで何が悪い!!!

と思いつつ、最近とんでもない体勢で曲を作ったりしている自分を考えると、これはずっと続けていくとまずいのではないか?とどうしても危惧してしまうのも事実。

 

以前にも何度かダイエットはしたことがある。

満足するほどオシャレに金を使っていないまま太りたくないと思っていたからだ。

 

僕の生活において、オシャレは優先順位が低い。

最悪生きていくのに必要がないからだ。

ニート生活も随分長くなってきた(最近そろそろニート名乗るのやめればと色んな人に言われる)が、それ以前から服にはあまりお金をかけることはなかった。

かと言って、オシャレしたいかと言えばそれはしたい。いつかしたいとは思っている。

往々にして、何かを十分に楽しんでいないまま手に入らなくなると後悔するものだ。

それをわかっていたのでいつかオシャレする時のために痩せようと思い、当時は実際痩せた。

 

今は服の好みも随分変わったので、別に太ったところでオシャレなどいくらでも出来ると感じている。

重要なのは筋力不足が深刻なレベルまできていることだ。

そして筋トレの効能を僕は既に知っている。

 

世の中の楽しみは消費・共有・生産の三つに分けられると言う持論に関しては以前書いたことがあると記憶している。

筋トレはこの三つの中で言えば明らかに生産で、その特徴として「面倒な上にしばらく我慢して続けないと効果が出ない」ことが挙げられる。

だがしかし、続けてさえいれば必ず結果が付いてくる上に、それがこの上ない快感であるのも特徴だ。

 

筋トレは恐らく、生産的な活動の中でも最も敷居が低い。

他のアクティビティを考えると、どうしても才能やセンスが必要になる場合が多い。

例えば音楽。音感が無ければその分だけ苦労は多くなる。敷居は低くはないだろう。

絵画や映像、文化的なアクティビティになればなるだけセンスを問われることになる。

 

その点筋トレはシンプルだ。

スポーツや球技などのように多角的な動きは必要ない。頭を使う必要もない。

グラウンドや体育館を借りる必要も、スポーツ用品を買い揃える必要もない。

その上ちゃんと継続して続ければ必ず結果が付いてくる。

 

頑張りが可視化されると言うのは非常に重要なことだ。

僕は自分を脳内麻薬の中毒者だと思っている。

なぜ音楽を作っているかと言えば、完成した時の気分が最高だからだ。

明らかに脳から何かが出ている。

自分で作った曲を何度も聴いてアヘつくのなど日常茶飯事である。

筋トレマニアが鏡の前でポージングすることと何も差はない。

 

普段の腰痛やヤバい体勢が改善され、しかも脳内麻薬を味わえると言うのであれば、やらない理由などないではないか。

何年かに一度来る筋トレの季節がまたやってきたようだ。

 

いつもはダイエットする時は有酸素運動を取り入れるのだが、今回は純粋な好奇心から糖質制限をしてみることに決めた。

もうすぐ一週間が経過するが、炭水化物のありがたさには頭が下がる思いである。

肉を毎日食べると言うのは、なかなかに攻撃的で暴力的な活動だと感じている。

食べてみればうまいのだが胃腸的にもしんどいし何か疲れる。

白米やパン、麺類の優しさ、ありがたさを再確認せざるを得ない。

効果が出るまで続けてみようと思うのでとりあえず1ヶ月続けてみようと思うが、さてどうなることやら。

 

筋トレは友人に腹筋ローラーをもらったので今日から始めてみたが、腹筋よりも背筋と腕の筋肉が絶望的にないことに気付く。

二の腕あたりがプルップルである。

千里の道も一歩から。俺たちの戦いはまだ始まったばかりだぜ。

 

ところでCDの制作だが、最後の最後のツメがマジで迷路。

JASRACマークを盤面に入れるだとか、入れたら今度ジャケットにも入れる必要があるだとか、重箱の隅をつつくような作業に気が狂ってしまいそうである。

もういい加減、本当に、いい加減にCDをプレスさせてくれ。

色んな人に「まだですか」と言われるのだが、僕が一番思っていると言うことをこの場で主張させて欲しい。

 

そんな具合にGWが過ぎ去っていったが、僕の日常はいつも通りです。

梅雨が始まる前に一度実家に帰りたい。

 

本日のおべんちゃらは以上。

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4/30

herthstoneというデジタルなカードゲームにウルトラハマっている。

とても面白い。ネットにつながればどこでも誰とでも出来るというのもとても良い。

言ってみればマジックザギャザリングや遊戯王などと同じようなものだと思うのだが、マジで勝てない。

一度の勝負が比較的短く出来て、負けると悔しいのに勝ってもさほど嬉しくない。

でもプレイ中はなぜかものすごい脳内麻薬が出てる感じがする。

パチンコってもしかしてこういう感じでハマっていくのではないか?

 

自分に合ったとても面白い遊びが生産的でない場合、それと良い距離感を保つのは非常に難しい。

自分の「楽しい」という気持ちが自分のみで完結してしまうとその先に道は開けない。

ただ最近は何でもシェアすることが容易で、僕のような本気で勝ちに行ってその世界で上を目指すつもりが皆無な人間も、YouTubeでプレイ動画などを見てハイレベルな戦いを楽しむことが出来る。

 

動画を上げて楽しませるという活動が当たり前になったことは本当にいいことだと思う。

最近ご飯を食べてる時などもっぱらherthstoneの対戦動画を見ている。

YouTubeのチャンネル登録やツイッターのアカウントなどもはちゃめちゃにフォローして情報を集めては戦略を研究するわけでもなくただ楽しく眺めている。

 

何かに近い気がして考えてみると、これはスポーツ観戦に近いのではないか?と思い立った。

例えばサッカーなんかは、本人がサッカーがうまいかどうかと関係なく、好きならば中継を見たり情報を集めたりするわけで、熱心なファンほど戦略・戦術についても研究している。

ゲームを楽しむという点においては全く同じなのではないか?

e-sportsという概念、言葉は非常に言い得て妙だと感じた。

 

大きな枠で捉えれば僕がいつも見ている動画もゲーム実況という括りになるのだと思う。

僕が気になるのは、そういう動画を上げているような国内でもトップだとか実力派であるガチプレイヤーの皆さんがどの程度収入や支援を得ているかだ。

まあ言っても仕方のないことだけど、国内でe-sportsやってます、プロです、或いはプロ目指してます、なんて言っても理解してもらえないことの方が恐らく多いだろう。

ただその文化も進んだ方が面白いと思うんだよな。

きっと僕が今更気付いたくらいだから、もっと早くに気付いて大きな声で提唱している人もいるんだろう。

そういう人のことをさらに大きな声で応援できるように、早くなりたいものだ。

 

だってさ、プレイ動画の中にトーナメント制の大会とかあったりするけど、解説なんか聞いてると、もうまんま将棋とかサッカーの実況ですよ。

違いがどこにあるか?プラットフォームと歴史と動く金だけ。

人の心が新しい文化に付いてこれなくてどうする。とどうしても思ってしまう。

 

ゲームの力はすごい。

最近何も無い週は飲酒は週3までと決めている。

今のところ割と守れているのだが、そうなってみて気付くのが、一人で酒飲んでるよりゲームやってる方が楽しいということ。

何でも使い方次第で人生を豊かに出来る。

「ゲームなんてやってたらバカになる」なんて言説があった時代もあるけど、いつの世もバカが使えば何でも凶器みたいなところがあるよな。

 

そんなこと言っておきながらほどほどに切り上げてちゃんと曲を作らないと、ほんとは僕のせいなのにゲームのせいにされちゃうから、気を付けないといけませんね。

 

本日のおべんちゃらは以上。

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4/17

新曲作りがとってもしんどい。

いつも通りをずっと続けているだけでは面白くないし、新しく好きになった音楽の要素を取り入れていかねば自分の音楽生命に未来はない。

故に色々試行錯誤を重ねるわけだが、まあうまくいかないこと。

挑戦無くして成功もないが、毎度のことながらピンと来るものが出来るまでのうだうだの時間は相当めんどくさい。

時間かからず良いものが出来る時ももちろんある。

Rainbow Townなんかは良い例で、あの曲はトラック作るのに2日程度しかかかっていない。

創作のインスピレーションはどこから来るのか、全く不思議なものである。

 

話は変わって、漫画村について。

僕はずっとその存在に気付いてから、「これでついに漫画も課金制読み放題サービスが出来るんだな」と思っていた。

音楽も動画もゲームも、基本無料の課金制が導入されたのは先に違法使い放題のツールが台頭したあとだったから。

 

で、この辺に共感してた。

 

 

 

 

そんで、この辺が全然拡散もイイネもされてなくて、結構え?マジで?ってなってた。

で、自分が考えてたこととか全部すごいうまくまとまってる記事を佐々木俊尚さんがシェアしてて、めちゃ共感した。

 

 

で、ものすげー残念で、ちょっと本当にがっかりしてるのが、この流れ。

 

www.huffingtonpost.jp

 

nlab.itmedia.co.jp

 

nlab.itmedia.co.jp

 

これ、もし忖度案件だったら法治国家名乗るのやめた方がいい。

やってることが中国と一緒。

既得権益にしがみつく様って見る度本当にげんなりするんだけど、久しぶりにこんな嫌なの見た気がした。

 

あとこの辺とか。

www.huffingtonpost.jp

 

違法云々に関しては、実は漫画家からはもうほぼ10年前に問題提起がされてて、

www.narinari.com

 

音楽もゲームも動画も、全部既に新しい時代に適応しようとしている。

出版だけ業界が今問題提起しても、何を今さら・・・と思わざるを得ないのはどうしようもない。

 

で、漫画村に慣れちゃった人は多分もうこれまで通りの元のやり方では漫画読まなくなるのではないか。

それだったら他の遊び探すわ、ってなりそう。

利便性の追求は一般人にとっては限りなく不可逆的で、例えば「スマホって別にいらなくないですか」って誰かに言うと、結構な脊髄反射で「いやいるでしょ」と言われることは多い。

ほんの10年前まで使ったこともなかったくせに、だ。

経験上、本当はスマホは無くても生きていけるし、ガスもネットも止まっても生きていけることはわかっている。

けど便利なものを手にすると、無くした時の不便が形のない不安になってのしかかってくる。

社会の発展は利便性の追求とセットになっていて、特に何も考えない人々にとってはそれは不可逆的なものなのである。

スマホが手元で壊れたとして、ガラケーならすぐ手に入りますよ、となった時に果たして喜んでそれを使う気になるだろうか?

普通は新しいスマホを入手するよう努力するのではないだろうか。

 

消費者では無く供給する側として考えてみると、これからの時代をクリエイターがサヴァイヴしていくヒントは、ゲーム実況にあるのではないか。

もう普通にモノを作って、「どうだいいだろ」「どうだ面白いだろ」でお金をもらうのは、なかなか難しい。

漫画家も音楽家も、作る過程や構想を配信か何かで公開すれば見たがる人はいっぱいいるのではないか。

有り体に言えば、新しいファンクラブのあり方を考える時がきているのではないか。

他にも新しいやり方を模索すればまだまだやれること、楽しそうなことはいっぱいあるはずなのに、「こうでなければならない」と言う考えに支配されている人はやはり多いようだ。

そう言う人たちに何か新しいやり方を提示出来る人間でありたい。

 

あと、仮に全てのコンテンツが無料で消費出来るようになったとしても、クリエイターはいなくならないし良いコンテンツも作られていくはずだ。

本物のクリエイターは放っておいても作ってしまうものだから。

そして良いものに触れると人はお金を払いたくなるものだから。

NEETの僕がBLUE GIANTだけは全巻買っていることこそが何よりの証左ではないだろうか。

 

本日のおべんちゃらは以上。

 

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4/13

母、襲来。

 

昼、チャイムの音で目が醒める。

宅急便は頼んでいない。

こんな平日の昼間にやって来るのは新聞か宗教の勧誘かだ。

昨日も遅かった。無視して寝ることにした。

 

チャイムが鳴り止まない。

どう考えてもおかしいレベルで鳴り止まない。

大家か隣人から何かの苦情だろうか?

(以前別の物件で大家が「大家!」と叫びながらドアを叩き続けると言う事案があった)

 

と思い、iPadを見てみると、母からの着信。

 

そう、今日は母が長野から来る約束があった。

定期的に東京に来ているらしく、今回は事前に行くから会いましょうと連絡をもらっていた。

10時に集合で、とも言われていた。繰り返すが、その時点で昼である。

 

母、憤慨。

これを読んでいる皆さんの想像のおよそ5〜10倍の小言を頂きました。

10:0で自分が悪い時、相手をなだめるのは本当に難しい。

ただ自分も本当に申し訳ないと思っていて、弁解の余地とか一個も無く本当に忘れていただけで、しかもたまにやってしまうタイプのやらかしが最悪のタイミングでやって来た。

管理能力の欠如に関しては、ちょっとそろそろ本気で改善に向けて取り組んでいかねばならない。

 

何より、時間を奪ったと言うことと心理的な圧迫をしてしまったと言うことが申し訳ない。

もののついでとはいえ息子に会うため朝から東京まで来て、一人で何度も電話して待って、連絡が取れないものだからわざわざ自宅まで突き止めてインターホンを鳴らしに来るまでの母の心境の変化を想像すると、ああああと声が出てしまう。

 

ひたすらに謝ってお昼をご馳走し許してもらったが、大事な用事なのに頭からぶっ飛んでしまうことは他の人と比べて結構ある方だと自覚している。

今日なんかGoogleカレンダーにも予定入ってたのに忘れていた。

どうにかしないとまずい。

 

予期せず母から高齢化するニート問題への言及を受けた。

僕は偶然ネットに上がっていたドキュメントを見て知ったのだが、かなりの生き地獄的な世界観がそこにはあった。

職能を得ることが出来ず、実績も収入も無いまま両親の収入をあてに引きこもり続ける40代、50代。

それを見てまるで他人事では無いなと肝を冷やしたのを覚えている。

母の周辺でも話題になっているらしく、自分もそうなるのではないか、そうなっても助けてやれないと心配された。

まあそりゃ心配するよな、と思う。

 

家族には積極的に自分がやっている音楽を聞かせたことはない。

照れ臭いし、一度も応援されたことはないし、家族の中で音楽マニアなのは自分だけだと思っているから。

音楽で喜びを共有出来ないのなら、他のことを一緒に楽しめばいい。

 

けどそれがどうやら31歳にもなって何をしてるかもわからない、先行き不安な不肖の息子像を作ってしまっているらしい。

まあ、大体は想像の通りなんだけど。

母からは「普通そのぐらいの年だったら」という言い方が頻出した。

 

自分が普通ではないというのは重々承知の上だが、「普通」という言葉はかなり定義が曖昧で想像力を奪う同調圧力的な言葉だと思っている。

非正規雇用者や低収入者が増える社会において、「普通」とは何か?は所属する環境によっても変わってくる。

もし社会全体の「普通」を定義しようとするならば、過半数を越える数の賛同がある価値観を「普通」とすべきだ。

それ、ゆくゆくは高齢者の常識が日本の常識になってしまわないか?

一方で世の中全体では一部の金持ちと残りの貧乏人という形が出来ているとして、じゃあ貧乏人の価値観が「普通」ということになるのか?

安心を「普通」という言葉で買うような使い方はなるべく避けたいものだと思った。

が、自分の生き方が普通でないことは誰の目にも明らかなので、そのメリットを享受する以上、デメリットも甘んじて受け入れなければならない。

何よりも、我が母が31歳ニートの息子を心配するのは地球が自転するのと同じくらい当たり前のことである。

 

ただ一つ強く思うのは、世の中に影響を与えたり人を感動させる何かを作るような人が「普通」であったことなど一度もないだろうということ。

今日のブログだって、1,2年後には熱心なファンにディグされて「あのSUKISHAもこんなこと言ってる時代があったんだなあ」なんて言われるようになると僕は信じて疑っていない。

何も動じることなんてない。平常運転です。

早く両親を安心させて世界旅行に連れてってやりたい。ので今日も新曲を作る。

新曲作りがマジで難航中でしんどい。

 

本日のおべんちゃらは以上。

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4/12

CDについて。

クラウドファンディングで資金を調達した拙作「Segment of Cakes」ですが、順調に全国流通へ向けて話が進んでいます。

まじで当たり前の話なんだけど、流通の会社の方とのやり取りも全部自分でしていると細かいタスクがたくさん発生して、とても大変な作業であることに気付く。 

 

気分としては、終わりの見えない掃除をしている感じに近い。

自分としては綺麗にしたつもりが「いやまだ全然やることあるでしょ」と言われてしまいがちなあの感じである。

「このぐらいでいいでしょ、もう十分揃ってるでしょ」と思ってデザインや必要な情報を揃えると、実はまだまだやることがあるとわかる。

キッチンの油汚れを掃除したら換気扇がどうだとか、水回りがどうだとかが気になり始めるわけだ。

やめてくれ、片付けは苦手なんだ、やめてくれ・・・。

 

クラウドファンディングが終わってからもう随分と日が経っていて、自分としては一刻も早くCDをプレスして参加してくれた皆さんに届けたいと思っているんですが、物事が進むのには思った以上に時間がかかってしまうようです。

 

会社設立できるかな?と言う、ネット上で必要なフォームに記入してちょっとお金を払うだけで株式会社が設立出来るサイトがある。

 

会社設立できるかな?

 

CDの流通ももう少しどうにかならないものなのだろうか。

なるわけないわな・・・。

作るだけなら誰でも出来るが、ちゃんと売るとなると話は随分違ってくる。

人対人でプロダクトを売る、しかも著作権が絡むとなると、どうしても関わる人は増えてきてしまうんだろう。

 

元来の性格で、意志決定のスピートが遅いのが苦手だ。

バンドをやろうとしたこともあるが自分主導のものが一度もうまくいったことが無いのもそれが一つの要因であるように思う。

人が増えるとそれだけで、全体の意志決定の前段階に「伝える」と言うプロセスが発生する。

これが特に音のこととなると難しい。当たり前だが音は言葉ではないからだ。

 

 

自分以外の人が関わるということは、ただそれだけでやらなければならないことが増える。

だがその分出来ることも増えていく。

当たり前を当たり前に実感しつつ犀の角のようにただ独り歩むのである。

遅くても6月にはみなさんのお手元に届く予定です。お待ちください。

 

余談。

我がホームタウン南大沢に不満はほぼ無い。

ただ近所に定食屋とタイ料理屋が無いのと、都心から若干遠いことだけが問題である。

急にカオマンガイグリーンカレーが食べたくなった時、都心にちょっとした用事がある時などはそこそこガクッときたり辟易したりする。

今年の目標は引っ越すことだが果たして。

 

本日のおべんちゃらは以上。

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