怠け者は今日も眠る

-ディスポエマーの日常-

8/1 月次報告、或いは選挙や少子高齢化について

7月の振り返り。

何してたかあんまり覚えてねえ。

7月公開されたものをTwitterで振り返る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SNS推移。

youtube / 3434→3912

instagram / 1536→1642

twitter / 4040→4112

 

まあ普通。

可もなく不可もない。

増加傾向はずっと変わらないが、その傾向に変化がないので変化してる割に脳が「変化なし」と認定していて何の感慨も湧かない。

本当は一つ一つの数字が一人一人の人間のはずで、意味があるはずなんだけど、やっぱSNSって手軽なもんだからね。

数は気にしすぎてもしょうがないし結局繋がりの濃さの方がよっっっぽど大事なんだよね。

 

興味深いのが、Twitterよりインスタの方が何しても断然反応いいんだよね。

Twitterは昔結構アコギな真似してフォロワー増やしたことあるんだけど、それとは関係なしに何もせずとも勝手に増えてく人たちがたくさんいるし見られてる数としては全然イーブンどころかインスタの方が少ないはずなんだけど。

これこそクラスタというやつなのではないかと思ってる。

Twitterに張り付いているタイプのややオタク気質な人々にはあまりウケていないのかもしれない。

僕はどちらかというとインスタよりTwitterの方が見るの好きなのだが。

 

ずっと言ってるけど、Twitterって結構「オープンな2ch」的な使われ方してると思ってて、オタク的なこととか日常への不満とか愚痴とか、そういうものをぶちまけやすい環境なんだと思うんだよね。

何となくだけど、人を攻撃していい(と凡夫どもが感じられる)空気が発生しやすいのも、炎上案件が観測されやすいのもTwitterではなかろうか。

 

自分の音楽はTwitter上ではあまり日常的に欲されてはいないのかもしれない。

どちらもヘビーユーザーって人はあんまりいないのかもしれないな。

現時点で結構感じてるけど、5Gの時代に入ったらTwitterは高齢化進むかもですね。

何でも動画になる時代に付いていけない人たちが文字でのやりとりを楽しむ的な。

 

もしくはTwitterユーザーは動画が基本になり、付いていけなくなって追い出されたユーザーたちが集まる、匿名性を排除しない新しいSNSが出来たりして・・・ってかそれmixiでよくないか・・・。

 

話は変わるが、7月はカレンダーを見る限り割と忙しかったらしい。

札幌行って、大阪京都行って、THREE1989のサポートやったりリハ入ったり。

あとは新曲作ったりMV撮ったり。

ライブも増えたしTHREE1989のサポートもガンガンやってきたいし、曲も作りたいけどゲームもやりたい・・・。

悩みは尽きないぜ・・・。

 

Switch Liteが発売されたら、多分買うと思うんだよね。

そしたらマジで今年終わってしまうのではないかと、ちょっとビクビクしてる。

ゼルダとオクトパストラベラーは絶対やる。実はゼルダはシリーズ通してやったことがないんです。

 

さて7月気になった出来事。

 

 

札幌から帰ってきて、インスタのストーリーで札幌勢がファミマでの風景を上げていて知った。

どんな形で関わっていてもどうしてもボーカルだけにリスナーの注目が行ってしまう問題に関しては、恐らく多くのミュージシャンが微妙な気持ちを抱えていると思うのだが、今回はさすがにマジか・・・となってしまい、ファミマに問い合わせた。

変に疑心暗鬼になってしまってヴァーチャルエネミーと頭の中で戦ってしまったりもしたのだが、ありがたいことに誰かが悪意を持ってやったのでは断じてなかった。

むしろ当時アーティスト表記をどうするか曖昧なまま、「まあいっか」と二人でとりあえず発表したRainbow Townが収録されたオムニバスをいち早く購入した制作会社の方が、今になって表記が変わっていることに気付かず善意で流してくれていたようなのだ。

やっぱり人類最大の敵って「めんどくさい」じゃなくて「うっかり」だよな。

俺らの最初の適当のせいじゃん。

しかもこれは避けられないでしょ。しょうがないでしょ。

まさか当時こんなに聴かれる曲になると思ってなかったし。

 

まあ生きているうちに自分の曲がファミマで流れてファミマに問い合わせて返事きて、「ファミリーマート御中」なんて頭につけてメール送る日が来るとはって感じですよ。

いい思い出です。

今回のファミマの迅速かつ真摯な対応、制作会社の方の好意で流れたRainbow Town、心配してくれたキキビビちゃんやリスナーの皆さん、全てに感謝ですわ。

みんなでファミチキ食べよう。

 

そして次。

 

 

選挙の行く末に関してはあんまり見てないし上記の通り興味もないんだけど、Twitterって選挙の時期になると「若者よ選挙へ行こう」って呼びかけでいっぱいになるじゃない?

僕あれずっと意味ないと思ってるんですよ。

理由はいくつかあれど簡単にいうと「投票してない人は見てないし見ても読み飛ばすだけだから」なんですけど。

 

で、あれだけみんな騒いでるから「若者の投票率が上がれば政治が変わる」っていうのを僕は割と「多分そうなんだろうな」って思ってたんですわ。

だったら若者の投票率を上げるために本当にそうしたい人たちってTwitterで呼びかけるより金とコネを集めるために動いた方がよほど効果的(説明すると長くなるのでなぜかは割愛しますが)だし、それをやらない人たちは普段仕事で忙しいのか緊急度が低いと思ってるのかなと。

 

そんで特に感慨もなく何気に眺めていたTwitterにまたこんな記事が出てくるわけですよ。

2chの創設者であり僕もファンであるひろゆき氏が「"若者の投票率が上がれば政治は変わる"って言ってる人たちはみんな嘘つき」とか言っちゃうんですよ。

t.co

 

で、これ読んで、「なんだ若者の投票率上がっても何も変わんないんじゃん」ってなりました。

僕が日本社会において一番気にしててまずいよなって思ってることって少子高齢化なんですよ。

若者の投票率が上がることで若者に有利な政策を提示する政党が出てきて、それが政治を動かす立場になり少しずつ変わっていくっていうのが、何となく王道のゲームクリア条件なのかなって思ってたわけです。

 

ちげーのかよ!何だよ!ってちょっと心の中でつっこんじゃって。

面白かったです。

 

で僕はこれから日本が少子高齢化の只中でもうどうしようもなくなった時、「日本から出ていく」という選択肢を選べない若者及び子育て世代がどういう風にサヴァイヴしてくかを考えてまた面白い仮説を立てちゃったんですけど。

 

みんなルール破り始めるといいなと思うんですよね。

理想は同時多発的になんですけど。

要するに、「恋愛orお見合い→結婚→性交渉and出産→核家族or親と同居で育てる」ってシステムに、色んなクラスタから「いや、それもう無理だから」って物言いがつき始めて、しかもルール破って自由かつ楽しく子育てしちゃう人たちが出てくるのではないかと。

 

ものすごく大きく捉えると、シェアハウスって発想ですかね。

かつては学生時代の溜まり場が就職や転勤なんかで色んなところで霧散して、友達も居場所も作り辛くなっていった環境へのカウンターカルチャー、かつ生活費の高騰からの脱却だと思ってました。

今もそれはそれなんですけど、段々そのシェアハウスで暮らすことが色んなところで当たり前になるにつれて共同体の最小単位が原始化していってるなって感じるんすよね。

 

血は繋がってないけど家族みたいに暮らしてく人が増えると思うんですよ。

「子供は欲しいけど結婚はしたくない」って人って結構聞くし、精子だけどこかからもらってきて人工授精して、生まれた子供はみんなで育てる。

近代化が進んだ結果家族の概念が原始化するっていう。めちゃくちゃ面白くないか。

 

そういうの、今だと倫理的に無理だ、とか「誰が親かわからない子供なんて」みたいな反感があると思うんだけど、このままの感じであと5〜10年したらどこかで黙ってやり始める人たちが出てくると思うんだよね。

IT原理主義かヒッピー辺りが最右翼の気がする。

 

数が少ないと意図をちゃんと伝えることもなく昼のワイドショーとかヤフコメ辺りでボロクソにやられて終わるので、出来るだけ求心力のある人たちがポップでカジュアルかつ同時多発的に「実はうちもそうでした」な感じで広まっていくことが望ましい。

そして出来れば女性がカワイイと思える呼び名で広まり、憧れのライフスタイルになると最高。

例えば「できちゃった結婚」を「授かり婚」と言い直したように、「お見合い」を「婚活」、「愛人」を「パパ活」と言い直したように。

 

反発してくる周囲なんていうのはね、結局現物や実績が手元にあれば黙るんですよ。

孫を目の前にして本気で反発出来る祖父母なんてほぼいないと思いますね。

 

ただこれは机上の空論だからいいけど、本当にやるならちゃんと倫理観と問題意識のバランスの取れた人にやって欲しいよね。

っていうかそういう人じゃなきゃ明確な意思持って出来ないとも思うけど。

生き物を育てるって非常に大きな責任が伴いますから。

 

基本的に日本ってずっと、根本的なシステムを変えることに消極的な国じゃないですか。

音楽だって動画だってどうにもならなくなるまで保守的に既得権益を守る人たちがいて、外資の企業が入ってきてようやく消費の形態が変わりました。

結局それって黒船の来航待ちと一緒じゃないすか。

 

エンタメとかコンテンツは別に最悪それでもいいですよ。

死ぬわけじゃないし。最悪だけどね。

けど少子高齢化だけはね〜。自分らで何とかしなきゃいけないわけですから。

日常生活では感情が論理を超えてるところってよく見かけるけど、国単位で見るとあんまりないですよね。

だから日本発で、感情が論理を超えてその結果論理側が折れるっていうのを、生存戦略の場面で見てみたいなーって。

どこかで国内からとんでもないパラダイムシフトが起きるのを僕は期待してます。

 

 そして最後。

 

www.nikkei.com

 

こんな痛ましい事件他にあるかってくらい痛ましい事件がまた起きちゃいましたね。

「パクリやがって」って叫びながら火付けたとか言いますが、一つパクられたならまた別の名作作ればいいだけだと思うんだよなあ。

 

支援金がこれだけ集まるのは喜ばしいことですが、単純に集まった額の大きさはもちろんのことだけどそれだけ重要な文化を作ってるということにもう少し自覚的になって、アニメイターの待遇だとか、職場のセキュリティとかにアニメ業界全体が意識的に取り組んでくれるとこういうことも減るんじゃないかなと思った次第です。

 

原画が燃えたとか、マジであっちゃならねーことですよ。。

本当に残念ですね。

 

さて7月読んで面白かったもの。

 

マイホームヒーローとかモンタージュとかが好きな人にはしっかりぶっ刺さるのではないか。最初はやばいのは主人公たちだけかと思いきや出てくるキャラみんなやばい事情抱えてる的な。

サスペンス、ミステリー、心理戦とか好きな人にオススメです。

 

 

面白いとは聞いてたけど、上下巻でこんな感動する話そうないですね。

不老不死らしい二人の子供たちが生きていくうちに人間の子供と出会って変化していくという話。最後もグッときましたわ。名作。

 

 

蟻の王 コミック 1-8巻セット

蟻の王 コミック 1-8巻セット

 

わかりやすい少年漫画でちょうどいいですね。

昨日の敵が今日の味方になっていく感じとかね。

ベタであることはとても大事だというけど、読んでて感じました。

 

長くなりましたが、7月はそんな感じでした。

本日のおべんちゃらは以上です。

6/30 月次報告

梅雨の到来。それは絶望と言う名の希望。

ポエマーか?と思いきや、梅雨、夏は必ず終わる。そして俺たちの秋がやってくる。

それは希望以外の何者でもない。だから絶望だが希望なのだ。

 

とまあクソどうでもいい屁理屈を並べたところで今月やったことをTwitterから振り返る。

 

 

 

 

 

 

 

そもそも週1・月3・年36曲計画の進捗報告として書き始めたこの月次報告ももはやその体をなさなくなって久しいが、毎月自分の身に起こることを記録すると言うことには割と意義を見出しているので続けていこうと思う。

 

SNS推移。

youtube / 3181→3434

instagram / 1262→1536

twitter / 3920→4040

 

伸び続けるYouTubeチャンネル登録者数。

だがやはりBlue in green効果も薄れてきている感があり、若干落ち着いてきたようである。

インスタとTwitterで展開したこじさんの演奏に勝手に伴奏付けるやつのおかげで、インスタが特に伸びた印象。

ありがたさ二日酔い時の味噌汁レベル。

Twitterは年内1万人目指したいが、まあちょっと現実的ではないかもな・・・。

メディアに載る予定も誰かにプッシュされる兆しもないし。

自力で音楽のみで増やすのはまあまあ無理ゲーなのはもう今わかったことではない。

 

心理学の実験で「大衆は権威に弱い」と言うことは証明されていると言う。

私に今必要なのは権威なのであろう。

要するにメディア、インフルエンサー、そういったものである。

欲しがって手に入るものではないので、普通に活動していくぐらいしか選択肢はないが。

 

今月は左耳が聞こえなくなる事件がまあまあデカかった。

それを理由にして色々サボれたし治ったから結果オーライなのだが。

今のペースでグイグイやってったら年36曲とか普通に出来てしまう気すらするな。

まあそんなこと言いながらサボってばかりだけどな。

 

最近おかげさまでまあまあ地方にライブで誘われたり、THREE1989(あいつらはマジで最高)のサポートでシンセベースを弾き始めたりして、「お忙しいところ恐れ入ります」感のあるコミュニケーションが増えた。

が、恐れ入られるほど忙しくないし、何なら暇である。

やはり暇は素晴らしい。だらだらするのが大好きだ。

やることやらずにだらだらし続けすぎると逆に鬱になるのでバランス感覚は大事だけど。

 

そんでここ最近気になった話題をいくつか。

letters-to-you.life

 

この記事読んで思ったことが二つあって、

私のエモい初聞き体験は15年以上前高校生の時、V系好きの音楽ヲタ同級生がV系バンドの叫びを「エモいシャウト」と言っていた時で、その時点ではエモいという単語はさほど使われておらず、普通に周りが使うようになったのが10年以上前大学生だった時なので実は単語自体はこの筆者の方が「エモい」と言う単語を認知する前から存在していたのではないか?

単語って実は結構同時代性を伴って色んな場所で使われることによって普及していくもので、うまくその波に乗れず流行らなかったけど実は前から使ってる人いたよって現象は割とあるよね。

だからそれで言うと、エモスクリーモ勢の言う「エモいは俺たちの言葉だから」っていう意見表明も、もしかしたら「いやもっと前から俺ら使ってたから」って気持ちを持った別の人たちいるかもしれないよね。

まあでも気持ちはわかるけどね。

と言うこと。

 

そして確かに最近の若者の「エモい」の使い方は割と陳腐になってきていると感じるし、先日した仕事の打ち上げでデザイナーの友人が、「最近の若者は雑なセックスを彷彿とさせる丸まったティッシュとベッドの写真とかを見てエモいとか言う。それはエモーショナルとは違うと思うしエモいの使い方が変だ」みたいなことを言っていて、若者って確かに刹那的であったりどこか投げやりであることをクールだと思いがちで、クールだって思ったその感情を自分たちの時代性を感じさせる発信として「エモい」と表現すると言う意味では確かに、それはいかにも若者感がある行動だ、と思った。

例えばクボタカイくんと言う若い男の子のラッパーがいて、その彼が歌う内容なんかはまさにその若者が表現する「エモさ」を体現していて、とても興味深い。

そしてその若者たちの「エモさ」には大きくクリープハイプが関わっている気がする。

ほとんど聞いたことはないけど。そんな気がする。

そもそも元々エモーショナルだ、と言う意味で「エモい」を私のようなおっさんが使っていた段階で、「最近の若者はエモいって言葉使うよね」と指摘されていたのがまあまあ記憶に新しいが、その言葉の普及率が上がるに連れて「エモいの使い方が変だ」と言う指摘まで出始めた。

ある事象が世に普及し、そして変化していく様を眺めて割と楽しい気持ちになった。

エモい。

と言うこと。

 

要するに私は暇なので、誰の得にもならないようなことばかり考えている。

 

そして次の話題。

 

ここ最近ちょっと話題になっているらしい。

まあいくつかあるけど、 

ビジネス観点で見るのならば、フェスとは言っても営利で絶対にお金が必要。

何らかの手段で調達する方法を主催側も考えてこうしているのかもしれないし、それは正当だと思うし、「嫌なら出るな、3万(6万ってマジ?)払ってでも出たいやつだけ応募しろ」で終了。

実際一回応募したことあってライブ審査の案内メール来たことあるけど、ノルマが発生するって言うの見た瞬間に「金払うんだったら行かんわ」となった私がいます。

とはいえ3万(6万ってマジのマジ?)×200組で600〜1200万の経費さっ引いたお金がどう言う流れで使われてるかは結構気になるよね。

聞いた話だとフェスって保険入らないといけなくて、その金が半端なくかかるとか。

でもあれだけ大きいフェスなら企業からスポンサードされていてもおかしくない気もするけど。

と言うこと。

 

さらに言うならば、どちらかというとやはり出る側の各種リテラシーの低さが問題なのではないか?

「フェスに出れば何かが変わる」と思って何となく応募しているのではないか?

思いっきりのレッドオーシャンに特に思索することもなくザブーーンと飛び込んでそれに3万突っ込んでいるのではないか。

フジロックでさえ、ルーキーアゴーゴーに出ても人生が変わるわけではない。

もちろん知ってもらうきっかけにはなるが。

記念受験になる可能性を考えて、それでもメリットがあると本当にみんな判断しているのだろうか?

と言うこと。

 

でもやっぱり個人的にはこのオーディションのアティチュードに賛同することは出来ないなと言うこと。

「フェスに出れます」と言う芥川蜘蛛の糸的な希望を垂らし、そこに集まってくる人々から(もしかしたら必要経費を稼ぐために)お金を取り、転換込みサウンドチェック15分で満足の準備も出来ないままする25分のライブをお客さんに見せると言うシステム(チケットノルマと言うのは本来お客さんを呼べ、と言う意味)、そしてそのノルマをクリアしたところで集客=ゴールではなく、自分たちの音楽に関してダメ出し及び説教までされると言うのは、どうしても首を傾げざるを得ない。

ノルマを課すのならば、極論人をたくさん呼んだバンドから順にフェス出演候補になってほしい。

ライブハウスが日々の興行でやるならわかるけど、フェスがオーディションでノルマを課すと言うのはちょっと解せない。何にでも金がかかるのは理解は出来るけど。

と言うこと。

 

とは言っても、最終的にはど正論の「嫌なら出るな、3万(6万ってマジのマジのマジ?)払ってでも出たいやつだけ応募しろ」で終了する話です。

ある程度実力があれば多分そのお金も事務所やレーベルが払ってくれたりするんだろうな。

自分たちで出すにはちょうどよく厳しい値段。世界は残酷だね。

エモい。

 

そして最後の話題。

www.change.org

 

ちょっと周回遅れ気味の話題だけどそういえば触れてなかったので書いておきたい。

「今さら違法アプリを無くそうって今昭和でしたっけ?」的な感想ではあるんだけど、そもそも何でミュージックFMって存在してるんだ?って言う疑問はずっと実はあって(Blue in greenのMVにも「ミュージックFMにありますか」ってコメントとか付く)、知人に聞いたら答えが返ってきて納得したんだけどやっぱり残念な話ではあったと。

 

普通に音楽聴きたいならspotify使えばいいじゃん。無料だよ。って話だと思うじゃない?思うじゃない?

 

何と令和元年に各種サブスクで聴けない音楽がたくさんあるらしいんですよ日本には。

これ本当に何でなの?メジャーレーベルはサブスク出したらCD売れなくなって損すると思ってるの?

俺そんなことないと思うんだよな。

CD購入層って絶対サブスクで聴けるようになっても絶望的なまでには減らないと思うんだよね。

嵐のベストが発売3日でミリオン達成、タワレコで行列ってニュースを目にしたけど、絶対複数枚買ってる人たくさんいるし、CD買う理由=音楽視聴ではもうほぼないと思うんだよね。

むしろジャニーズはCDでしか音楽聴けないとか、CDで音楽聴くってどんな罰ゲーム?って思ってしまう(ちなみにオーディオマニアの後輩たちの間では「やはりCDは音がいい」と言って新たに買うムーブメントが起きている)。

印鑑業界が印鑑無くす法律に全力で反対したみたいな、そう言うのをCD作る製造会社とかとやってるんだろうか?

何にせよ、今さら違法アプリを無くそう!って言うのは、ここン10年で音楽が刻んできた歴史に全力で、しかも意味無く反旗を翻す行動だなあと思いました。

もう聞き放題にして世界に輸出するのが一番いいと思うけどなあ。そしたら違法アプリなんて一瞬で誰も使わなくなるでしょ。

Netflixとhuluとプライムビデオがある時代に各種海賊版動画サイト使う人はなかなかのヤンキーだと思うよ。

関わる人が多いとそれも難しいんだろうか。

音楽に関わる人が世界中みんな幸せになれるといいですねえ。

 

さて今月読んだもの。

亜人(14) (アフタヌーンKC)

亜人(14) (アフタヌーンKC)

 

 

以前に読んだことはあったものの、進みが遅いので放置していた亜人を読んだ。

マジで引くほど面白くてびっくりした。

多分作者の方は海外のドラマとか映画が好きなんじゃないかな。

いい意味で日本ぽくない話の進み方で、それをうまぁく日本人が読んでも面白いようにしている感じがする。

主人公が頭を使って戦っていくタイプの話はやっぱり最高ですね。

 

 

ザ・ファブル コミック 1-18巻セット

ザ・ファブル コミック 1-18巻セット

 

いやーこれも面白いですね。

絵で見せるタイプの漫画ですね。話の進みが結構遅く感じるのは多分人の動きを絵で丁寧に見せてるからだと思う。

どうしたらこんなに裏社会について詳しくなれるんだ?と思ってしまうような、アブナイ世界の知識が満載です。

 

 

最近読んだ漫画の中でも一番考えさせられましたよ。

今は中高一貫校が増えてるから中学受験が結構一般的になってきてるんですって。

でも小学生にめちゃくちゃ塾通わせてすげー勉強させるの?

ってか大学ってそこまでして行く必要ある時代か?とか色々考えてしまった。

これについては語り始めると一つまた記事が書けてしまうのでまた今度にしよう。

面白いです。

 

と言うことで本日のおべんちゃらは以上です。

6/16

最近結構忙しくなってきていて、割とあわあわ言ってる。

のに耳垢栓塞なる症状になってしまい若干イラついている。

読んで字のごとく、耳垢が風呂やプールなどで水分を吸収し、その後鼓膜に張り付いて固まって取れなくなってしまう症状らしい。

つまり左耳が聞こえない。

 

実は小学校の時にもなったことがあり、まあすぐ取れるだろうと思っていたら今回のは案外しぶといらしく、耳鼻科でもらった薬を挿して3日様子を見たが取り切らない。

「一週間したらまた来てください」と言われたものの、正直この状態であと一週間(正確には既に2日立っているので5日)いるというのは相当に厳しい。

身体的なストレス(薬挿すとなんかかゆいしちょっと痛いし変に耳の中が圧迫されて心臓の鼓動と同じリズムで何かが収縮している音が聞こえる)もそうだし、普通に制作の邪魔以外の何者でもない。

ミックスが出来なくて困っちゃうよね。

 

たかが耳垢、されど耳垢的な。

「そうならないように頻繁に耳掃除しましょうね」という話かと言えば実はそうではないらしく、耳垢は本来掃除しなくても勝手に出てくるものらしい。

するにしても諸説あり、2週間に一度でいいとか、もっとスパンが長くていいとかという話もある。

にしても自分は基本的に耳掃除とかしないので放置しすぎたということなのだろう。

気を付けなきゃねえ。ミュージシャンなんだからねえ。

 

とか言いつつ、こういうのって結構いい機会で、「もし左耳がこのまま聞こえなかったら」なんて仮定に頭を巡らせたりもした。

日常的なストレスは多分しばらく続くだろうけど、慣れてしまえば生きてはいけるだろうし、片耳聞こえないくらいなら全然音楽作り続けるだろうなと思った。

むしろ耳が聞こえない人たちがどうやって音楽聞けるようになるかとか、そういう技術開発やIT系のムーブメントにも協力出来るのではないか?

それはそれで面白くないか?などと思ったりも。

まあ聞こえた方がありがたいし早く治したいが。

我慢ならないので明日もう一回耳鼻科行ってこようかと思う。

 

話は変わるが、来年辺りネット回線が4Gから5Gになるという話を聞く。

つまり今よりももっと手軽に重たいデータをスマホなどで扱えるようになるということだと思うが、そうなると多分文字の文化はどんどん隅に追いやられていくだろうなと。

例えばブログとか。小説とか。メディアもそうかもしれない。

動画や漫画が今よりさらに情報伝達の手段として使われるようになって、もしかしたらツイッターも文字で表現するメディアではなくなるかも。

ただでさえ今のツイッターって有益な情報を箇条書きにする、みたいなものが重宝されがちだし。

割と文章は書くのも読むのも好きな方なので、自分の好きな文化が廃れていくっていうのはちょっと悲しいな。

まあ今の時代は消費者と利便性が文化を定義すると言っても過言ではないので、変わりゆくその様を斜に構えながら見ることしか僕には出来ませんが・・・。

 

そして気になったブログがあったので貼っておく。

ロックバンドLUNKHEADのボーカル小高さんによる、バンドがマジで動員出来なくて危ういことを告白する内容。

lineblog.me

 

要約すると頑張っても動員が増えない。バンド解散の危機、という内容。

高校生の頃とかMDで聴いてたし、大学のサークルでコピーバンドなんかもやったことがあるバンドなので、結構衝撃的だった。

今聴くかと言われれば申し訳ないけどそれはNoだけど、音楽性云々は別として頑張ってる人には報われて欲しいというスタンスの人間なんですね僕は。

けど本当に残念なことに、現代って音楽をお金にするにはバンドって形態はかなりハードルが高いと思ってて、だからこれから始める人には間違いなくDTMを勧める。

 

バンドで食ってくためには、相当大きな循環を作っていく必要があって、つまりそれは多くの人が聴いて「いい」と言ってくれる内容でなければならないし、潜在顧客がいっぱいいる場所には必然的に競合もわんさかいるし技術も才能も本当に輝くものを持っていないといけないしで、本当に難しい。

そのぐらい、アーティストとして発信する類の音楽、それ単体で稼げる額というのは昔と比べれば減っている。

別にそれはいいことでもなければ悪いことでもないただの社会の変化でだと思っていて、やりようを変えていくことで誰でも乗り越えられる問題だと思ってた。

けど、既に発進していてある程度の実績があって方向修正が出来ないタイプの人たちは困ってしまうんだなってことをこのブログで実感した。

 

ある程度スタイルが決まっていてそれにプライド持ってやってる人たちに、今から「国内需要だけだと厳しいんで世界目指しましょう」とか、「バンドで食ってくのはきついんで個人でDTMで曲作りましょう」とか、軽く言ったら真顔で殴られかねない。

そういう人たちに向けて自分がかけられる言葉が何かあるだろうか、と真剣に悩んでしまった。

 

自分からもしも提案出来ることがあるとすれば、多少音のクオリティが下がったとしても制作費を減らして、曲をたくさん作って自主で配信することくらいかな。。

でもそれも多分事務所に所属してると難しいのかもしれない。

儲からないのなら分配する関わる人を減らすしかないし、人を減らすつもりがないのならば儲かるものを狙って作るか、或いは曲をたくさん作って今よりたくさん聴いてもらうしかない。

こんなこと言わなくてもわかってるだろうし、偉そうなことなんて全然言えないけど。。

 

何だかテクノロジーの発展の光と闇を見た気がした。

音楽を作る人たちがみんな幸せだといいんだけど、出来る人がいれば出来ない人がいるのも当たり前の世の中だからな。。

つくづく社会というやつは、残酷で、しかし美しい。

 

本日のおべんちゃらは以上です。

6/4 月次報告

札幌とその他バタついてしまったが5月の振り返り。

5月公開したものをツイッターより抜粋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SNSの数字推移。

youtube / 2475→3181

instagram / 1151→1262

twitter / 3788→3920

 

年36曲、という今年の目標はマイナーチェンジというべきか大幅路線変更と言うべきかいつの間にかその体をなさなくなったが、基本的にはやるべきことに向かって進んでいる毎日。

4,5月は春と言う浮ついた暴力に打ちのめされ、また自らが課した新曲への精神的ハードルの高さ及び、その高さから逃避する目的でサボってみるのだが根が無駄に真面目なのでそのサボっていることに罪悪感を感じて行為自体を楽しむことも出来ず、結局納期ギリギリになってやるざるを得ない状況に迫られようやく着手し、結果出来上がったものを愛でて「やれば出来るんだからさっさとやればいいのにって毎回言ってるよね」といつも通りの反省を行う流れに落ち着いた。

この一連の流れからは「人はそんなに簡単に変わることは出来ない」、とも「人は本当に変わろうと思えば実行に移せさえすれば変わることも出来る。着手継続が命」とも言え、学びは特にない。

 

やはり思うのは、夏休みの宿題をコツコツ毎日やれていた人間は強い、と言うこと。

姉はまさにそのタイプで、一番最初に生まれた子だから厳しく躾けられたみたいな話は聞いたことがあるし、自分は三番目の末っ子なので可愛がられたし割と適当だったと言う自覚もある。

高校の頃数学の先生も学年集会で「東大に受かる子はみんな段取りがいい」と言っていた。

優秀な人間は計画を立てるのがうまいし、「準備が8割」と言う名言もある。

 

自分のようなそういった素養を持ち合わせていない人間は、誰かちゃんと管理してくれる人に突き上げられるのがちょうどいいのかもしれないと感じることもある。

死ぬか生きるかの瀬戸際くらい追い詰められていないとやらない時もある。

でもノリにノっていて作り続けちゃう時もある。

 

今やらなければ死ぬ、と言うほどではないが、性格的に何もせず誰とも会わずにいると「何のために生きているんだ俺は」となりがちなので色々と気を付けていきたい。

6月は忙しくなりそうなのでうまく生き延びていきたいところ。

 

話は変わるが、札幌に向かう道すがら飛行機の中で映画を見た。

もらい事故的なネタバレはすることもされることも割と嫌いなので何の映画かは言わないが、途中までは面白かったものの、最後の最後で「いやそれはないだろ」となってしまった。

簡単に言えば、リアリティのある内容の映画なのだが、包丁で刺された人間がさらにロープで首を締められ、かなり長い間その状態にあったのだがまだ生きていて、しかも苦しみながらもずっと喋ると言う状態が続いたのを見て、「いやその血の量で首まで本気で締められてたらもう死んでるし喋れるわけないだろ」と言うツッコミをしてしまったと。

 

このことからそうなんだなあ、と思ったことが2点あった。

一つは、創作には誰もが一定のリアリティを求めていて、作り手は皆そのバランス感覚を模索していると言うこと。

二つは、科学技術やネットの発達によって世の中全体の考証が厳しくなってきていると言うこと。

 

前者は、あくまでエンターテインメント作品を作っている以上、現実には起こり得ないようなことを描かなければいけない時がある、と言うのがキーになっている。

例えば被写体に関して考えてみても、「普通そんな体制取らないだろ」と言うものがかっこよく、美しく見えたりもする。

その割に虚構の世界に現実性を求める向きというのは確実にある。

極論言ってしまえば「リアリティがない」なんて批判は「作り物なんだから当たり前だろうが」で終わりなのだが、でもそれではつまらないというのもわかるわけで、例えば人が死ぬところを本気でリアルに撮影なんかしたらトラウマ残るレベルで気持ち悪いだろうし見てられないし炎上案件待った無しであろう。

消費者はマクロで見れば非常にわがままで、全員を満足させることなど絶対に出来ないのだなと改めて感じた。

 

後者は以前から感じていたことなのだが、例えばジョジョのアニメなんかを見ていても「いやそんなわけなくね?」というツッコミをどうしても入れたくなってしまう場面がいくつもあって、それは恐らく自分が大人になったからではなく現代的な所作の一つなのではないかと思ったという話。

推理小説で人を殺そうとすると科学捜査の質が高まりすぎて普通には出来ないのでクローズドサークルを作るしか無くなってしまった、という話も聞いたことがあり、何となくなあなあで作ってると昔よりも消費者に手抜きがバレやすくなっているなと。

旧来型のコンテンツ、つまり映画や小説、音楽なんかは入念に力を込めて作らないと消費者に刺さらない。割に一つ一つに支払われる対価は下がっている。

逆に新しく出てきたyoutuberなんかのコンテンツはありのままを見せることが多く、故に嘘がないから考証が必要ない。

もしかしたらだからSNSスマホ時代に受け入れられてるのかもね。

 

そしてレビューやコメントに顕著に見られる、「ここで萎えた」「つまらない」などの感想。

アマゾンでその映画のレビューを見てみるに役者を呼び捨てにして明確に「つまらない」などと言及する行為、或いは口汚く罵るその様は、これまで日常的にクローズドなコミュニティで行なっていたことを、無意識にインターネット表層でもしている人たちによって為されているのかもしれない。

要するにそういった人たちは環境に順応しているようでしておらず、対人対面であれば「失礼にあたる」と言うのがわかるから直接は言わず裏でこそこそするのだが、インターネット上ではそのよく言えば素直、悪く言えば下品で思考停止的な感想を、誰でも見れる場所に書いてしまうのだろう。

正直言って、「ただ同然でコンテンツを消費しているだけの割になぜこんなに偉そうに批評したつもりになれるのだろう」と思ってしまうよね。

 

ただ少し同情もしてしまう部分はあって、多分そういう人は多分映画はもちろん何かコンテンツを本気で作って人の目に晒されたり、それによって評価されたり自己肯定感を得たりしたことがないんだろうなとも思う。

というかそもそも、アマゾンのレビューもYouTubeのコメントもヤフコメも、その他たくさんある「うわーこんなこと普通言うか?」案件と言うのは、マイノリティ中のマイノリティがしているはずで、人類全体がポジティブな意見よりネガティブな意見に目がいってしまいがち故に気になってしまうわけだから、そう言うの書いてる人たちには「ああ、そうでもしないと構ってもらえないんだね・・・」という感じでもう同情前提で接する形にはなるわけだけども。

 

だって見た感想って普通は友達とか家族恋人とシェアするもんな。

一緒に見たわけでなくともいくらでも連絡なんて取れるわけだし。

わざわざ誰でも見れる場所にしかも批判的な意見書き込むって相当寂しいんだろうなって思うと、虚しくもなるよね。

 

まあつまり全体的には、時代が進むにつれて人の心理的な動きが可視化され、その見え方も変わってきてるね。面白いねって話です。

 

読んで面白かった漫画。

 先日ブログで書いて、読みたくなってまた読んでしまった。

本当にいい漫画だね。ラストが少し物悲しいけど。

いつの時代も足を引っ張るのは文化水準の低さ由来の想像力欠如型の人々だよねって思ったよ。

やっぱり大事で、かつ一番難しいのって教育なんだよなあ。

 

本日のおべんちゃらは以上です。

5/28

今朝起きたという、殺傷事件が痛ましすぎて気が滅入っている。

被害者や遺族が本当に気の毒で、これから楽しいことがいくらでもあったのに全く関係のない他者にその可能性を閉ざされてしまったということをとても残念に思う。

 

自殺したという犯人の50代男性、実際のところがどうかはこれから報道が明らかにしていくんだろうけど、そのステータスだけ見ると「一つも人生がうまくいかずもう何も失う物のない人が"社会"という大きな括りへ最後に腹いせをして自殺した」という構図に見えてしまう。

 

以下はその前提で書いていくが、違ったらすみません。

 

正直、僕には他人事に見えない。

10年後、20年後にもしかしたら人を殺しているかもしれない。

 

以前、偶然発見したドキュメンタリーをYouTubeで見たことがある。

中高年の引きこもりが増えているという内容だった。

年金暮らしの親に頼り自室で消費活動だけを繰り返す様、そして更生を目指す団体の職員が接触を試みて自立を促していく。

無理やりこじ開けたそのゴミだらけの自室には、ボサボサの髪型に中年太りの男がスウェット姿でいた。

とてもじゃないが、他人事だと思えなかった。

今回の事件も、それに近いものを感じている。

 

例えば今回の件を受けて、

「子供達は外で遊ばないようにしましょう」

「不審者には近寄らないようにしましょう」

という対策は自衛の意味では合っているし、取らざるを得ないのだと思う。

 

それは間違い無いんだけど、それよりもどちらかというと社会全体から「もう生きていても意味がない」「何らかの形で社会に復讐したい」と思う人を失くす、減らすことの方が大事なのではないか。

と僕は思ってしまう。

 

世の中を考えてみれば不審者や凶悪犯罪予備軍の方が数は圧倒的に少ないはずで、刑法犯の総数は年々減少している。

実は今国内はとても平和なはずなのだ。

(殺人の数は減ってはいないが、そもそも極めて少ない)

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平成30年警察白書 統計資料 特ー2より引用

https://www.npa.go.jp/hakusyo/h30/data.html

(認識が間違っていたらすみません)

 

マイノリティである凶悪犯罪から身を守るために、マジョリティが他人を警戒して社会全体が不信感に満ちていくというのは本当に悲しい。

息苦しく感じてしまう。

かと言って、万が一に備えるという意味で安全策を講じることも正しい。

だからこの問題はとても難しい。

難しいけど、出来ればその何ら生きる価値を見出せずに投げやりになってしまう人たちにも、豊かに生きられる未来を、と僕は思う。

 

豊かさとは何か、というのはよく考えるんだけど、

・「自分で自分の生きる道を選んだ」という自負

・ある程度の消費活動

・(時には多少のストレスを伴う)生産的な活動

・その消費と生産を他者と共有すること

このバランス感覚なのではないかと思う。

 

ただ生きるための仕事でもいい。

お金が欲しい、今の仕事はクソだ、と嘆いてもいい。

でも行きすぎて歪んでしまったり、共有する相手が見つからず溜め込んでしまったりはよくないのだと思う。

納得のいかないことがあっても、イライラすることがあっても、どこかで「これはこれで悪くないよな」とみんなが思えるような、そんな素敵な世界であって欲しい。

 

そのために、出来ればこれを読んでいる人くらいには、失敗に寛容であって欲しい。

僕はたくさん失敗してきたけどまだ自分を信じて生きていられる。

それは僕の失敗を「仕方ないよね」と受け入れてくれた家族や友人がいたからだと思う。

 

例えば大学で色々あって会社の内定を蹴って留年した時、姉や父母は「これからまた頑張ればいい、今が一番辛い時だから」と言ってくれた。

でもよく覚えていないが5年目だか6年目を迎えた時、新歓コンパに顔を出して知らない若者に留年していると伝えると「何やってんすか、ちゃんと生きなきゃダメじゃないすか」とバカにされた。

誰にだって生きていれば歴史があり、事情がある。

そのことを想像出来ない人は少なくない。

 

日本社会はなぜか、「一度失敗してしまったらもう取り戻せない」という意識が強い。

例えば終身雇用だとか新卒一括採用というものが現実的ではないという意識がようやく共有され始めた今でさえあるくらいなのだから、今の40,50代の頃の想像もつくだろう。

その世界で失敗して、自尊心を持てないまま可能性が緩やかに閉ざされていく人生を想像すると、本当に胸が苦しくなる。

生まれる時代が違ったら、もしかしたら自分もそうだったかもしれない。

ドキュメンタリーに出ていた彼や、今回人を殺して自殺した彼は、世界線の違う自分なのかもしれない。

そう思うととても他人事とは思えない。

 

繰り返すが被害者やその遺族の皆さんの悲しみは計り知れないし、犯人がしたことは到底許されることではない。

裁かれなければならないだろうし、人殺して自殺したなんて最悪だ。

だけど、報道がこれから過熱していく様も、それを見てまるで関係ない人たちが犯人やその遺族に対して石を投げつける様も、正直見たくない。

 

僕たちに必要なのは、よりよく生きていくための教養なのではないか。

憎しみだとか怒りだとか悲しみだとか、そういうものがごちゃ混ぜになって知らない人たちがいがみ合っている姿は本当に悲しい。

 

ただのミュージシャンでしかない僕が政治に対して出来るのは投票ぐらいなものだが、社会全体に対しては落伍しかけている人々をどう幸せへ導いていくかというのを考えて欲しいなと思う。

それが凶悪犯罪の減少に繋がると信じています。

 

正常と異常は地続きになっています。

だからみんな正常になれるし、異常な状態からも引っ張り上げられる。

僕は引っ張り上げてもらってかろうじて生きています。

社会とうまくやっていけない人たちが豊かに暮らせるようになり、その結果凶悪犯罪が減り、全ての人が安心して暮らせる世の中になることを願っています。

 

本日のおべんちゃらは以上です。

5/24

twitterやnoteの運用について。

自分がどうやって音楽活動を始めて今どうやって生きているかとか、これからアーティスト・ミュージシャンとしてやっていきたい人たちに有意義なことを発信していきたい。

ただそれはいわゆるソロプロジェクトであるSUKISHAのやるべきことではないと思うので、別でアカウントでも作ろうかと思っている。

 

今SUKISHAの活動を見てくれてる人たちと、その知識を見たい人は多分層が被りづらいから。

前者は純粋な音楽活動の情報が欲しいはずで、余計なことは言わない方が彼彼女らにとっても、自分にとっても健全。

後者はもしかしたら中には自分の音楽が好きと言ってくれる人もいるかもしれないけど、どちらかというと自分の活動に利用したい、若しくは共感するとか別分野の仕事人が興味を持って読むかもしれない。

最近そういうものなのかもな、と受け入れ始めたが、「アーティスト的な創作」と「ビジネス的な意識の共有や啓蒙」、この二つはあまり印象の相性がよろしくないらしい。

音楽至上主義の僕は音さえよければ何を言っていようが構わないのだが(と言うか言動がウザければYouTubeサウンドクラウドだけ通知が来るようにして言動部分はミュートしておけばいい)、世の中的には言動がアーティスト性を損なう場合がある、と考える人は少なくないらしい。

 

でなんでその点がこれまで強情に認めていなかったのにちょっと認める気になったかというと、

僕はフリースタイルラップバトルを割とずっと楽しく拝見していて、それ自体はどちらかというとリズムに乗ってうまいことを言う、方向性の違う笑点的なコンテンツとして見てるんだけど、その中でも最近、お、この彼いいなと思うラッパーがいたと。

でどんな人間なのか気になったのでGoogleで検索してみたら一番にtwitterが出てきて、見てみるとひたすら質問箱に来てる質問に答えまくっていたと。

ハチャメチャにだせーなと思ってしまったんですよ。

現場でリアルな心情をビビらず吐露する、みたいなスタンスでストイックにラップする姿と、質問箱にひたすら返答し続けて承認欲求を存分に満たしつつフレンドリーにファンとコミュニケーションする姿とのギャップにまるでヒップホップ要素を感じなくて。

 

「コンテンツと人格は別で判断すべきだ」とか言っておいて、自分ですら音楽に近いコンテンツ(僕はフリースタイルバトルを音楽的とはあまり思っていません)でさえも、別で判断出来ていない。

ましてや、その前提について歯牙にかけたことすらない人たちにその思想が通用するはずも刺さるはずもない。

なるほど、そりゃ無理だ、と思うと同時に、自分は果たしてどうだろうか?と思ったんですよね。

そんで、これまでの自分のネット上での言動とかが人からどう写っていたのかとか考えた結果、もうSUKISHAと言う活動では余計なことは言わず作品を発表していくだけにしようかなと言う結論に至りました。

twitter上に残った情報から人柄を判断されたくないって感じでしょうか。

プラットフォームの性質上、自分が伝えたいことを完全に伝えるのは無理だと感じるので。

 

ただ、僕のことをよくご存知な方々はわかると思うんですが、僕はとてもよく喋るし思ったことや仮説を誰かに話したくて仕方ない人間なんです。

それが出来ない状態は比較的息苦しく感じてしまう。

SNS自体は割と好きだし見てるし、好きなことを好きな時に手軽に発信はしたい。

 

それに、ずっと前から思ってるけど、自分は変なこだわりや強情さが取れなくてここまで来るのに随分遠回りしてしまった。

全員がそうとは言わないけど、不器用に頑張っているアーティストと言うのはやっぱりたくさんいるし、その中で光るものを持ってる人たちが、その不器用さゆえに少しやり方を考えれば変わるかもしれないのに燻ったままでいる状態と言うのがとても嫌なんです。

でもそう言う人たちは、アーティストゆえに強情さを曲げないことも多い。それは美徳でもある。

そんな人たちが、もしかしたら触れることで少し見識を改めてくれるかもしれない。

そう言う情報を出来れば僕はこれから発信していきたい。

 

これまでのやり方だけでは、ミュージシャン、アーティストと呼ばれる人たちは、これからもっとお金を稼ぐのが難しくなっていくと思います。

お金って仕事の対価で、仕事って何かと言うと他者の欲求を満たすこと。

音楽活動で他者の欲求を満たすには、好きな歌を歌い続けるよりも今あるスキルを切り売りする方がはるかに効率が良いです。

 

でも少し考え方さえ変えられれば、今は好きなことやって生きていくと言う考え方に非常に友好的な時代。

他のジャンルも何でもそうだけど、これまでの定義の垣根をどう越えるかと言うことがこれからはとても大事になっていく。

僕は本当に、ただ本当に運が良いだけだから、努力してる人たちを尊敬するし、厚かましいかもしれないけどそう言う人たちが幸せに生きていけるヒントに自分がなれたらとも思うんです。

たくさん失敗してきたからこそ、出来ない人たちの気持ちもわかる。

 

ただこれは、いつ始めるべきなのか?と言うのがわからないんですよね。

正直まだかなとは思ってる。

だって一応生きてはいけてるけど、アーティストとしての実績は乏しいから。

どうせならもっと説得力がある感じでやりたいと言う気持ちはある。

 

けど、今の状態からでもいいから自分の考えを主張しつつ、同時にそれを実行することで説得力も応援の輪も強めていく、それが今っぽい。と言う考え方もある。

どっちがいいんだろうなあと思いつつ、あと暇があまりないって言うのもあるよね。

音源作らないと俺が死ぬ。色んな意味で。

 

あとはあれだ、難しい言葉並べて意識高いたかーいってしてるとそう言う人しか読んでくれないから、小説とか小話風にして自分が言ってるんじゃないよ、これはフィクションだよーって感じを出すって言うのもやってみたいんだよね。

寓話とか絵本から始まって、教訓を混ぜ込んだエンターテインメントってやっぱりずっと消費者に支持され続けてるわけだし。

 

今じゃないのかなあ。

需要ありますか?とか聞きたくないし、聞かずにやることは決まってるけど始めたところで反応があまりないとモチベーション上がらなくてやる気なくなるし、結構難しい。

とりあえず今じゃない気がしてきた。

まあいいか。

 

多分これはもう少し考えてみるって言って放置して別のことやってるうちにそっちに夢中になってしばらくやらないやつだ。

本日のおべんちゃらは以上です。