7/17
気付けば一ヶ月ほどブログを書いてなかったわけですが、SNS等でご覧頂いている方々はご存知の通り、そこそこ忙しい日常を送っています。
現在参加しているfeat.ソニーミュージックオーディションについて、多少詳しく説明が出来たらなと思って今日はブログを書いています。
実務的なことを具体的にガンガンSNSで見せびらかすのも気が引けるので、このブログを読んでくれるくらいには僕に興味を持ってくれている、積極的に応援してくれている皆さんに、一体どんな仕組みで、何をしてくれるとありがたいかを書いておこうかと思います。
要するに音楽でバズを生み出せ、という話ではあるのですが、それって結局SUKISHAが曲作るしかないやんって話になっちゃいますよね。
まあそれはそれで作るし、今面白い企画をあーでもないこーでもないと捻り出している最中ではあります。
やはり懸念はランキングというものが存在していて、その順位が推移すると。
その点なのかなと思うんです。
正直僕はこのファイナリストのメンツを見て、「絶対勝てませんやん」と思ったんです。
どんな人が通ったのか想定した時に、「若くて可愛いガジェットを使いこなす女の子がいたら絶対勝てないな」と思いました。
いました。
オーディション開始当日、恋する幽霊のMVを公開しました。
いい曲だし、いろんな人が再生してくれて、当日だけで5〜800回は再生されました。
「俺もでっかくなったものだ・・・」と遠い目をしたものです。
あさぎーにょさんというユーチューバーの女性も同日、米津玄師氏の曲のカバーMVを上げておられました。
当日だけで4万回再生されてました。チャンネル登録者数、23万人。
負けるに決まっとろうが!!!
と思ったのに、なぜかランキングではその二人を越して僕が暫定の2位に位置しています。
これ何でやねんって思ったんですけど、結局音楽についての言及が多かったから、と考えるのが自然なようなんです。
SUKISHAの作ったこの曲がかっこいい、このアレンジがかっこいい。
そういうことを積極的にコメントをつけてくれたり、ツイッターでつぶやいてくれたりすると、それを大いなる意志みたいな概念的な何かが吸い上げて元気玉にしてくれるみたいなんですね。
所謂機械的全方位的イイネはありがたいはありがたいんですが、それは多分他のファイナリストの方がはるかにやられていて、かつスコアに加算されていないのではないか。
だから、応援してくれている皆さんにお願いしたいことは、至ってシンプル、たった一つなんです。
ただ、僕の作る音楽に期待してください。
で、その期待を越えてきたら、「この曲かっけえ」って言ってください。
イイネよりも、ちゃんと「かっけえ」って言って欲しいです。
もちろんイイネもRTも嬉しいですが。
そうすることがどうやら勝ちに繋がるようなのです。
これ、よく考えなくても、僕と皆さんのために超よくないですか。
だって僕は新曲作りたいし、多分今これ読んでる皆さんは新曲聴きたいですよね。
で、新曲聴いてかっけえって思ったらそれをいうと僕が強くなる。
いつも通りのことで、いつも以上に幸せになれる。
これもしかして何かすごい面白いんじゃないか?
そんな気がしてきました。
最近は周囲や環境の変化についていけなくて結構情緒不安定になってました。
というか今もです。
泥酔するといつも友達に「自分がわからない」と話して泣いています。
けど、やりきるしかないんですよね。やると決めたら、やる。
やりたくないことはやらない。
そう決めて今まで進んできて、それで少しずつ前進してきたから応援し続けてくれた友人がいて、応援も増えている。
僕に出来るのは本当に曲を作ることだけで、たったそれだけの、だけど自分にとっては大事なその行為で、このオーディションをやりきるところまでやってやろうじゃないかと。
そう思っています。
だから、皆さん、オーディション期間中は、無理は本当にしなくていいから、ちょっと気が向いた時には積極的に僕のことを誉めてやってください。
もしかしたら面白いことが起きるかもしれませんよ。
長丁場だけど頑張るぞ!応援よろしくお願いします!
本日のおべんちゃらは以上。
6/20
軽度ADHDと思しき自称ミュージシャン無職男性31歳の日常。
3つ以上やることがあると必ず1つは忘れる。
①自転車で向かい②コンビニ決済し③百均で梱包用品を買う場合。
自転車を置いて歩いて帰ってきてしまい、戻る。
①猫のエサと②お酒を買いに出て③ついでに近くの店で食料調達する場合。
エサを買い忘れて猫のトイレ用品を代わりに買っていた。
①猫のエサを買い②ついでに昼飯を食べ③トイレに行く場合。
お昼を食べた店に猫のエサを忘れてくる。
コンビニにゴミ袋を買いに出たら、帰ってくると酒とつまみに代わっていたこともある。
いつも何かぼーっと考え事をしながら物事に取り組むためだと思われるが、考え事をやめることが出来ません。
薬もらうとマジでシャキッてするって友達が言ってた。
でも別に俺今そんなに困ってないし、まあしょうがないかなって思ってる。
同じ症状で困ってる(仕事とかしてて他人に迷惑かけちゃう)人が減ればいいなとか、そういう人のミスに寛容な人が増えればいいなって思います。
アルバムのリリースから1週間が経った。
店舗で売れてるかはわからないけど、ライブやDJをすると知らない人が買ってくれます。
CDって大きな流れの中ではもう売れないものだけど、小さな現場レベルの視点だとまだまだ売れるんだよなあ。
示唆に富んだ現象ですね。
本日のおべんちゃらは以上です。
6/13
本日発売のアルバム「Segment of Cakes」に寄せて。
約1年半前には既に出来上がっていたこの作品、ここまで来るのには本当に長い道のりがありました。
出来上がった当初はまさかこんなに色んな人にいいと言ってもらえるとは思っていませんでした。
アーティストを拗らせに拗らせていた自分が、一度頭を柔らかくしてみようと試しに作った側面のある今作品。
少し肩の力を抜くくらいが人には伝わりやすいという学びをくれました。
音楽を好きになればなるほど、自分よりも好きではない人に届くものを作らなければ生きていけない。
だから、「好きなことを仕事にすると辛くなる」という人もいるんだと思います。
ただ、それには少し語弊があるというか、いくつもの解釈が存在しています。
アーティスト的な狭く深い、自らの好きを追求することを目指す人が、好きなことだけで生きていくのにはやはり大きなハードルと運の要素が介在します。
一方で、広く浅い、相手へと届けることを第一義としたデザイナー的なアプローチをする人が、果たしてその対象を好きだと自信を持って言えるのか。そしていいものを作ることが出来るのか。
それにもまた議論があります。
実際には二項対立的な構造ではなくグラデーションになっているものですが、僕は結局、広くて深い人間が一番強いのだと思います。
以前、ブログにも書いたことがありますが、
「音楽が好き」と、「好きな音楽がある」には大きな隔たりがあります。
自信を持って前者だと言える人ほど、こだわりが強くなってしまい、結果世の中ではマジョリティに当たるであろう後者にそれが伝わらない、という現象が往々にして起こります。
しかし、だからといって後者の人間が作ったものが、誰かに伝わるかというと、実はそれも伝わらないことが多いのです。
人のアンテナというのは不思議なもので、「細かいこだわりまではわからないけど、この人は何かが違うぞ」というのを見抜く人は存外たくさんいるものです。
だから、全方位的な「好き」を自分の中にちゃんと確保して、人々の耳にそれを気付かせる必要がある。
残念ながらそれは伝わらないことの方が多いのですが、繰り返していけばきっとどこかで気付いてもらえるのだと思います。
「成功しないのは才能がないから」と言う人がいるのはそう言うことなのでしょう。
「Segment fo Cakes」以前の僕は、細かいこだわりと自己主張を洗練させることに必死でした。
自分とは何なのか、自分らしさを主張するために何をすべきなのか。
今も考えていることは一緒ですが、少し視野が狭まっていたのだと思います。
まさに若さゆえの何某、というやつです。
結果、自分にとっては忘れることの出来ない大事な音楽を作ることは出来ましたが、多くの人にとってそれは魅力的には写らないようでした。
随分と悩んだものですが、今ではそれも無駄ではなかったと思えます。
twitterでは告知をしましたが、旧作のCDが自宅から偶然見付かったため、現在ネットショップで販売をしています。
それが、驚くほどに売れています。
そして多くの方に「昔の曲も良いね」と言って頂けている。
あの頃よりもはるかにたくさんの人が、自分の作る音楽を聴いて、何かを考えてくれている。
今の自分が作ったものが、昔の自分へ誰かを繋げてくれている。
とてもありがたいことだと思います。
比較的、性格には難があると言われる方なのですが、昔はただしゃべっているだけなのに「気に入らない」という理由で殴られたことも何度かありました。
親戚に殴られて「お前は性根が腐ってる」と言われたこともあります。
家族には今まで一度も音楽をやりたいという気持ちを応援されたことはありませんでした。
その家族が、今は「私は恋する幽霊が一番好きだから、ああいう曲をもっと作って」と言ってくれます。
兄の奥さんがサイン入りCDが欲しいからと購入してくれたりします。
今になってみれば、ただ心配なだけだったんだなと言うのがよくわかります。
そしてそれは進行形で続いていることでしょう。
自分が一番詳しい数値化出来ないスキルに関して、自分より詳しくない人にどう優れているか説明するのはとても難しいことです。
今まで一回も成功したことがない。
結局一旦はだけど、納得させることが出来たのは数字だったのかなと思います。
YouTubeで1万回再生されてコメントもたくさんもらって、ツイッターで拡散されて、クラウドファンディングで72万¥集めて、CDが全国流通することになった。
良くも悪くも、これは全部一人では出来ないことだったなと思います。
広大なインターネットの海の中で、自分を見付けてくれて評価・支援してくれた皆さんのおかげです。
全てに納得しているわけではないし、もっとこれからやらなければならないことはたくさんあると思います。
課題やタスクを感じつつもサボり続けている自分にいい加減危機感と嫌悪を募らせてもいます。
ですが、ひとまず皆さんにお礼を言わせてください。
ようやっと、自分の作品をちゃんと世に出すことが出来ました。
ありがとうございます。
今日この日くらいは自分のことを褒めてやりたい。
CD、買うか否かは本当に個々にお任せします(買ってくれると支援にはなるけどネ)。
僕の家には再生機器がありませんし、そう言う人も多いと思うから。
みんな好きなように、好きな音楽を聴けばいい。
そしていつか僕の作った音楽に辿り着いてくれたら嬉しいです。
最後に、伊坂幸太郎氏が好きなんですが、魔王という小説から好きな言葉を引用して今日はおしまいにします。
でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば世界は変わる。
僕もそう強く信じています。
本日のおべんちゃらは以上。
5/21
人類最大の敵は果たして何か。
古谷実先生の初期作品が好きで、特に「僕といっしょ」「グリーンヒル」「ヒミズ」辺りはやはり何度読んでも面白いなと思う。
特にグリーンヒルが大好きで、その作中で主人公が「人類最大の敵"めんどくさい"とどう戦っていくか考えなきゃなあ」というようなことを言う。
もっと若かった、仕事とは、働くとは何か、社会とは何かと言うことが当たり前にわかっていなかった、普通の学生だった頃の自分は、古谷実作品に少なくない影響を受けていた。
だから、僕も人類最大の敵は「めんどくさい」なのだと思っていた。
しかし最近、それはちょっと違うのではないかと思い始めた。
実は「めんどくさい」と言うやつは、恐らく毎日仕事をしている皆さんならばわかってもらえると思うのだが、責任感や報酬を与えることで克服出来る。
一人ではめんどくさくてやらないことは、他者に頼りにされたり、他者から圧力をかけられることによって案外出来てしまうものだ。
大量のサラリーマンの皆さんが毎日満員電車に揺られて通勤することがある意味では証左と言っても良いだろう。
やりたくなくても、好きなことではなくても、大体の人は責任と報酬を与えられればこなせてしまう。
では一体人類最大の敵は何なのか。
僕は最近、これは「うっかり」なのではないかと考えている。
うっかりから生じるミスは絶対に無くならない。
大事なことをうっかり伝え忘れるだけで、誰かの頑張りが完全に無駄になったり、誰かが本気で怒ったりする。
めんどくさいは回避出来るが、うっかりは回避出来ない。
しかも恐ろしいことに、うっかりは人を殺しさえする。
交通事故の多くはうっかりが原因だろうし、衝動的な殺人だって言ってしまえばうっかりに近いものがある。
我々は、うっかりしてしまうことが原因で奪ったり奪われたりしているのではないか。
そう考えたのも先日役所に行く用事があり、時間と曜日を確認し、片道一時間使って向かったのに閉まっていた、と言うことがあった。
ここ最近で一番腹が立ったし、どうしようもない気持ちになった。
しかも伝えた本人に悪気はない。怒ろうにも怒れない。役所にクレームつけようなどとも微塵も思わない。
徒労、と言う言葉が脳内を埋め尽くし、どこにぶつけて良いかもわからない暴力的な衝動が胸の内からとめどなく溢れてくる。
そんな状況、ここ最近本当になっていなかった。
僕は時間に余裕がある方だから良い、だがこれが別の人だったら一体どうなっていたか。
そう考えると、うっかりの恐ろしさは計り知れない。
この場合は確実に「めんどくさい」より「うっかり」の方が人を不幸にしている。
「誰もが最善を尽くしているはずなのに誰も幸せになれない」と言う状況は生じてしまうものなのだ。
このことに思い至って、こと国内においては「めんどくさい」よりも「うっかり」の方がよほど凶悪なのではないか?と考えた。
日本人は良くも悪くも真面目な人が多く、「ちゃんとせねばならない」「まともに生きねばならない」と思っている人が多い。
その心持ちから考えても、「めんどくさい」に対する耐性は高いのではないか。
一方で、他者の「うっかり」を被ったり目の当たりにすると、ある種病的なまでにディスり始めると言う特性もあるように思う。
「自分はそんなミスはしないし、世の中もちゃんとしているのだからミスは責められるだけの理由がある」
そう思っている人が多いのではないだろうか。
人の失敗に不寛容なのは、「めんどくさい」に頑張って勝ちすぎているからなのではないだろうか。
心理学の用語には「他者信頼」と言う言葉があるそうだ。
これは誰でも善人として信じて生きていきましょうねと言う意味ではないらしく、「お互いが不完全であると言う前提に立つ」ことを意味するらしい。
この価値観に僕は非常に強く共感を覚える。
誰だってミスはする。ミスをした人間を吊るし上げることは、仮に自分がミスをした時にも吊るし上げて良いですよ、と言っているのと同義だ。
コードギアスでルルーシュくんが「撃って良いのは撃たれる覚悟があるやつだけだ」と言っている。ならば誰も撃とうとしなければ良い。そう言うことだろう。
だって本当は誰も撃たれたくなんかないでしょう?
「自分はミスなんかしないから大丈夫」って思ってる?
敷かれたレールの上でなるべく失敗しないように気をつけながら、失敗したやつをせせり笑って生きていくことが果たして幸せなのか?
やったことがないからわからないものと比べて、今の幸福度が高い低いと語ることは出来ない。なのに自分の幸せはこれだと信じたがるのは、失敗した時救済手段が存在しないからだろう。
皆で救済してやりゃ良いじゃん。自分だってとんでもないミスすることあるんだからさ。
誰だって不完全なんだからさ、そりゃ怒っちゃう時もあると思うけど、おおらかでいたいよね。
挑戦無くして成功も失敗も無い。失敗を責めるようでは成功も抑制してしまう。
「うっかり」に勝つのは寛容さではないかと思う。
聖書のこともキリストのことも大して知らないが、「罪の女」と言う一説で、罪を犯した女に対して人々が石を投げる場面でキリストがこんなことを言うそうだ。
あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。
全く言い得て妙だ。
地獄への道は想像力の欠如によって構成されている。
失敗に不寛容な社会、その先の道はもしかしたら地獄へ続いているんじゃないだろうか。
願わくば、全ての人が「めんどくさい」に意志の力で打ち勝ち、他者の「うっかり」を容認出来ますように。
久しぶりにグリーンヒルを読み直そうか。
むしろ古谷実先生の最近の著作を読まねばならないな。
本日のおべんちゃらは以上。
5/7
そば茶の淹れ方で学ぶ「人は論理より感情を優先しがち」問題。
身体中が筋肉痛で痛い。
腹筋ローラーの効力と言うよりも少し運動しただけで身体中が筋肉痛になる自らの筋力不足にため息混じりの驚きを感じている。
ここ最近そば茶を愛飲している。
きっかけは我が愛すべきホームタウン・南大沢にあるちょっといいスーパーにペットボトルで売っていたことだった。
僕はカフェインを摂取すると体調を崩すため、基本的にノンカフェイン飲料しか摂取しない。
エナジードリンクの味は好きで、カフェインの存在について真剣に考えていなかった頃はモンスターを飲んでは気持ち悪くなっていた。
飲む度何故こんなに気持ち悪くなるのだろうと思っていたところ、カフェインが原因だったらしい。
それに気付いて以来モンスターは飲んでいないし、気持ち悪くなるのは二日酔いの時だけだ。
そしてそのちょっといいスーパーでは、大体弁当を買って食べる。
500¥にしてはやけにボリューミーで、動物性タンパク質と炭水化物と脂肪を前面に出した、「学生はこれを求めてるんだろ?オラオラオラ」とでも言いたげなとても素敵な代物である。
スーパーと言うのは往々にして目当ての物以外も購入させるよう意図して導線を用意しているものだ。
当然弁当売り場の近くには飲料売り場がある。
そこで僕とそば茶は運命の出会いを果たした。そば茶 meets SUKISHA。
なんてロマンチック。
そんな素敵な出会いと共にそば茶の美味しさに気付き、ペットボトルで一本ずつ買うのはコスパが悪いと言うことで国産韃靼そば茶150gをアマゾンでポチったわけである。
家でそば茶を淹れるようになると、なかなか興味深いことに気付く。
一杯飲むだけならば湯飲みにそばを入れてお湯を差し、数分待つだけだ。
しかし、一日家にいる性質上飲み物は沢山作っておきたい。
故に鍋に湯を沸かし、そこにそばを入れて沢山そば茶を作ることになる。
そうしてみると、何やら違和感がある。
お茶を鍋で沸かすと言う行為に。何ならおたまで掬って味見すると言う行為に。
自分の中の「お茶は急須で入れて湯飲みで飲むもの」と言う先入観及び感情が、あまり美味しくないと訴えかけてくるのである。
待て、待つんだ。
どんな作り方をしたってそば茶はそば茶じゃないか。
成分と作り方が同じなんだからうまいに決まってる。
マグカップで飲もうが湯飲みで飲もうがおたまで飲もうが、そば茶はそば茶だ。
そう思いたいのに、おたまで飲むそば茶はやはり味気なく感じてしまうのである。
普段料理をする時の動作と同じだからか、「お茶を飲む」という行為とどうしても結び付かない。
戸惑いを感じつつも冷めるのを待ってマグカップで飲んだ。
さて、僕はこの体験は非常に示唆に富んでいると感じた。
僕は普段「どんなに嫌なやつだろうがいい音楽を作るのならば素直に賞賛も拡散もするし何なら力になりたい」という、音楽至上主義を信条としている。
逆に、承認欲求や感情を前面に出すタイプの人は正直苦手だ。
「あいつは気にくわないから音楽も聴かない」なんて言い出された日には、お前は音を聴いてんのか、人を見てんのかどっちだ?と問いたくなる。
良いものは嫌なやつが作ろうが素直に認めて広げていく。
逆に良くないものは良い人が作っていても協力は出来ない。
文化人たるもの、そうであるべきではないか。
しかし、音楽や自分に関して言えばこのスタンスは変わらないのだが、全ての人にこれを求めるのは無理があるのだと、今日そば茶に気付かされたわけである。
誰だってイメージに引きずられる。
論理的には正しかったとしても、感情がそちらを向いていなければ是と出来ない事柄と言うのは、やはりあるのだ。
さらに言えば、コンテンツの良さは人の感情によって増幅も減退もする。
そのメリットを受けている以上、デメリットに文句を言うことは出来ない。
まあ普通はよほど詳しくて好きなものでないとコンテンツだけで判断することなんて出来ないよね、と。
最高級のイタリアンをムカつくやつと食べるよりも、気のおけない友人とマックを食べた方がうまい。
そう言うことなのだろう。何だか腑に落ちてしまったわけだ。
そば茶はおたまで飲むより湯飲みで飲んだ方がうまい。
そば茶マニアではない僕は感情に引きずられてそう感じてしまう。
ちょっと不思議な気持ちになるので、今度お茶を淹れる機会があったら鍋で淹れてみておたまで飲んでみるといいよ。
不思議な気分になれます。
本日のおべんちゃらは以上。
5/6
ここ最近、食の楽しみを謳歌しすぎた感があり、多少太った。
ので、筋トレ及びダイエット活動を始めようと思う。
別に食を楽しむことも太ることも大した問題だとは思っていない。
いないのだが、先日ライブ会場で話した共演者のお客さんが、トレーナーやら整体師をやっているらしく自分の体型を見てどう思うか聞いてみた。
日がな一日している仕事の話を職務を終えてやってきている人に振ると言うのも心苦し具はあるものの、好奇心には勝てないのが人の性である。
曰く、
「筋力無さそう」
「骨格歪んでそう」
「腰痛いって言ってそう」
「下っ腹出てそう」
とのことである。
黙れ!その通りで何が悪い!!!
と思いつつ、最近とんでもない体勢で曲を作ったりしている自分を考えると、これはずっと続けていくとまずいのではないか?とどうしても危惧してしまうのも事実。
以前にも何度かダイエットはしたことがある。
満足するほどオシャレに金を使っていないまま太りたくないと思っていたからだ。
僕の生活において、オシャレは優先順位が低い。
最悪生きていくのに必要がないからだ。
ニート生活も随分長くなってきた(最近そろそろニート名乗るのやめればと色んな人に言われる)が、それ以前から服にはあまりお金をかけることはなかった。
かと言って、オシャレしたいかと言えばそれはしたい。いつかしたいとは思っている。
往々にして、何かを十分に楽しんでいないまま手に入らなくなると後悔するものだ。
それをわかっていたのでいつかオシャレする時のために痩せようと思い、当時は実際痩せた。
今は服の好みも随分変わったので、別に太ったところでオシャレなどいくらでも出来ると感じている。
重要なのは筋力不足が深刻なレベルまできていることだ。
そして筋トレの効能を僕は既に知っている。
世の中の楽しみは消費・共有・生産の三つに分けられると言う持論に関しては以前書いたことがあると記憶している。
筋トレはこの三つの中で言えば明らかに生産で、その特徴として「面倒な上にしばらく我慢して続けないと効果が出ない」ことが挙げられる。
だがしかし、続けてさえいれば必ず結果が付いてくる上に、それがこの上ない快感であるのも特徴だ。
筋トレは恐らく、生産的な活動の中でも最も敷居が低い。
他のアクティビティを考えると、どうしても才能やセンスが必要になる場合が多い。
例えば音楽。音感が無ければその分だけ苦労は多くなる。敷居は低くはないだろう。
絵画や映像、文化的なアクティビティになればなるだけセンスを問われることになる。
その点筋トレはシンプルだ。
スポーツや球技などのように多角的な動きは必要ない。頭を使う必要もない。
グラウンドや体育館を借りる必要も、スポーツ用品を買い揃える必要もない。
その上ちゃんと継続して続ければ必ず結果が付いてくる。
頑張りが可視化されると言うのは非常に重要なことだ。
僕は自分を脳内麻薬の中毒者だと思っている。
なぜ音楽を作っているかと言えば、完成した時の気分が最高だからだ。
明らかに脳から何かが出ている。
自分で作った曲を何度も聴いてアヘつくのなど日常茶飯事である。
筋トレマニアが鏡の前でポージングすることと何も差はない。
普段の腰痛やヤバい体勢が改善され、しかも脳内麻薬を味わえると言うのであれば、やらない理由などないではないか。
何年かに一度来る筋トレの季節がまたやってきたようだ。
いつもはダイエットする時は有酸素運動を取り入れるのだが、今回は純粋な好奇心から糖質制限をしてみることに決めた。
もうすぐ一週間が経過するが、炭水化物のありがたさには頭が下がる思いである。
肉を毎日食べると言うのは、なかなかに攻撃的で暴力的な活動だと感じている。
食べてみればうまいのだが胃腸的にもしんどいし何か疲れる。
白米やパン、麺類の優しさ、ありがたさを再確認せざるを得ない。
効果が出るまで続けてみようと思うのでとりあえず1ヶ月続けてみようと思うが、さてどうなることやら。
筋トレは友人に腹筋ローラーをもらったので今日から始めてみたが、腹筋よりも背筋と腕の筋肉が絶望的にないことに気付く。
二の腕あたりがプルップルである。
千里の道も一歩から。俺たちの戦いはまだ始まったばかりだぜ。
ところでCDの制作だが、最後の最後のツメがマジで迷路。
JASRACマークを盤面に入れるだとか、入れたら今度ジャケットにも入れる必要があるだとか、重箱の隅をつつくような作業に気が狂ってしまいそうである。
もういい加減、本当に、いい加減にCDをプレスさせてくれ。
色んな人に「まだですか」と言われるのだが、僕が一番思っていると言うことをこの場で主張させて欲しい。
そんな具合にGWが過ぎ去っていったが、僕の日常はいつも通りです。
梅雨が始まる前に一度実家に帰りたい。
本日のおべんちゃらは以上。
4/30
herthstoneというデジタルなカードゲームにウルトラハマっている。
とても面白い。ネットにつながればどこでも誰とでも出来るというのもとても良い。
言ってみればマジックザギャザリングや遊戯王などと同じようなものだと思うのだが、マジで勝てない。
一度の勝負が比較的短く出来て、負けると悔しいのに勝ってもさほど嬉しくない。
でもプレイ中はなぜかものすごい脳内麻薬が出てる感じがする。
パチンコってもしかしてこういう感じでハマっていくのではないか?
自分に合ったとても面白い遊びが生産的でない場合、それと良い距離感を保つのは非常に難しい。
自分の「楽しい」という気持ちが自分のみで完結してしまうとその先に道は開けない。
ただ最近は何でもシェアすることが容易で、僕のような本気で勝ちに行ってその世界で上を目指すつもりが皆無な人間も、YouTubeでプレイ動画などを見てハイレベルな戦いを楽しむことが出来る。
動画を上げて楽しませるという活動が当たり前になったことは本当にいいことだと思う。
最近ご飯を食べてる時などもっぱらherthstoneの対戦動画を見ている。
YouTubeのチャンネル登録やツイッターのアカウントなどもはちゃめちゃにフォローして情報を集めては戦略を研究するわけでもなくただ楽しく眺めている。
何かに近い気がして考えてみると、これはスポーツ観戦に近いのではないか?と思い立った。
例えばサッカーなんかは、本人がサッカーがうまいかどうかと関係なく、好きならば中継を見たり情報を集めたりするわけで、熱心なファンほど戦略・戦術についても研究している。
ゲームを楽しむという点においては全く同じなのではないか?
e-sportsという概念、言葉は非常に言い得て妙だと感じた。
大きな枠で捉えれば僕がいつも見ている動画もゲーム実況という括りになるのだと思う。
僕が気になるのは、そういう動画を上げているような国内でもトップだとか実力派であるガチプレイヤーの皆さんがどの程度収入や支援を得ているかだ。
まあ言っても仕方のないことだけど、国内でe-sportsやってます、プロです、或いはプロ目指してます、なんて言っても理解してもらえないことの方が恐らく多いだろう。
ただその文化も進んだ方が面白いと思うんだよな。
きっと僕が今更気付いたくらいだから、もっと早くに気付いて大きな声で提唱している人もいるんだろう。
そういう人のことをさらに大きな声で応援できるように、早くなりたいものだ。
だってさ、プレイ動画の中にトーナメント制の大会とかあったりするけど、解説なんか聞いてると、もうまんま将棋とかサッカーの実況ですよ。
違いがどこにあるか?プラットフォームと歴史と動く金だけ。
人の心が新しい文化に付いてこれなくてどうする。とどうしても思ってしまう。
ゲームの力はすごい。
最近何も無い週は飲酒は週3までと決めている。
今のところ割と守れているのだが、そうなってみて気付くのが、一人で酒飲んでるよりゲームやってる方が楽しいということ。
何でも使い方次第で人生を豊かに出来る。
「ゲームなんてやってたらバカになる」なんて言説があった時代もあるけど、いつの世もバカが使えば何でも凶器みたいなところがあるよな。
そんなこと言っておきながらほどほどに切り上げてちゃんと曲を作らないと、ほんとは僕のせいなのにゲームのせいにされちゃうから、気を付けないといけませんね。
本日のおべんちゃらは以上。