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そば茶の淹れ方で学ぶ「人は論理より感情を優先しがち」問題。
身体中が筋肉痛で痛い。
腹筋ローラーの効力と言うよりも少し運動しただけで身体中が筋肉痛になる自らの筋力不足にため息混じりの驚きを感じている。
ここ最近そば茶を愛飲している。
きっかけは我が愛すべきホームタウン・南大沢にあるちょっといいスーパーにペットボトルで売っていたことだった。
僕はカフェインを摂取すると体調を崩すため、基本的にノンカフェイン飲料しか摂取しない。
エナジードリンクの味は好きで、カフェインの存在について真剣に考えていなかった頃はモンスターを飲んでは気持ち悪くなっていた。
飲む度何故こんなに気持ち悪くなるのだろうと思っていたところ、カフェインが原因だったらしい。
それに気付いて以来モンスターは飲んでいないし、気持ち悪くなるのは二日酔いの時だけだ。
そしてそのちょっといいスーパーでは、大体弁当を買って食べる。
500¥にしてはやけにボリューミーで、動物性タンパク質と炭水化物と脂肪を前面に出した、「学生はこれを求めてるんだろ?オラオラオラ」とでも言いたげなとても素敵な代物である。
スーパーと言うのは往々にして目当ての物以外も購入させるよう意図して導線を用意しているものだ。
当然弁当売り場の近くには飲料売り場がある。
そこで僕とそば茶は運命の出会いを果たした。そば茶 meets SUKISHA。
なんてロマンチック。
そんな素敵な出会いと共にそば茶の美味しさに気付き、ペットボトルで一本ずつ買うのはコスパが悪いと言うことで国産韃靼そば茶150gをアマゾンでポチったわけである。
家でそば茶を淹れるようになると、なかなか興味深いことに気付く。
一杯飲むだけならば湯飲みにそばを入れてお湯を差し、数分待つだけだ。
しかし、一日家にいる性質上飲み物は沢山作っておきたい。
故に鍋に湯を沸かし、そこにそばを入れて沢山そば茶を作ることになる。
そうしてみると、何やら違和感がある。
お茶を鍋で沸かすと言う行為に。何ならおたまで掬って味見すると言う行為に。
自分の中の「お茶は急須で入れて湯飲みで飲むもの」と言う先入観及び感情が、あまり美味しくないと訴えかけてくるのである。
待て、待つんだ。
どんな作り方をしたってそば茶はそば茶じゃないか。
成分と作り方が同じなんだからうまいに決まってる。
マグカップで飲もうが湯飲みで飲もうがおたまで飲もうが、そば茶はそば茶だ。
そう思いたいのに、おたまで飲むそば茶はやはり味気なく感じてしまうのである。
普段料理をする時の動作と同じだからか、「お茶を飲む」という行為とどうしても結び付かない。
戸惑いを感じつつも冷めるのを待ってマグカップで飲んだ。
さて、僕はこの体験は非常に示唆に富んでいると感じた。
僕は普段「どんなに嫌なやつだろうがいい音楽を作るのならば素直に賞賛も拡散もするし何なら力になりたい」という、音楽至上主義を信条としている。
逆に、承認欲求や感情を前面に出すタイプの人は正直苦手だ。
「あいつは気にくわないから音楽も聴かない」なんて言い出された日には、お前は音を聴いてんのか、人を見てんのかどっちだ?と問いたくなる。
良いものは嫌なやつが作ろうが素直に認めて広げていく。
逆に良くないものは良い人が作っていても協力は出来ない。
文化人たるもの、そうであるべきではないか。
しかし、音楽や自分に関して言えばこのスタンスは変わらないのだが、全ての人にこれを求めるのは無理があるのだと、今日そば茶に気付かされたわけである。
誰だってイメージに引きずられる。
論理的には正しかったとしても、感情がそちらを向いていなければ是と出来ない事柄と言うのは、やはりあるのだ。
さらに言えば、コンテンツの良さは人の感情によって増幅も減退もする。
そのメリットを受けている以上、デメリットに文句を言うことは出来ない。
まあ普通はよほど詳しくて好きなものでないとコンテンツだけで判断することなんて出来ないよね、と。
最高級のイタリアンをムカつくやつと食べるよりも、気のおけない友人とマックを食べた方がうまい。
そう言うことなのだろう。何だか腑に落ちてしまったわけだ。
そば茶はおたまで飲むより湯飲みで飲んだ方がうまい。
そば茶マニアではない僕は感情に引きずられてそう感じてしまう。
ちょっと不思議な気持ちになるので、今度お茶を淹れる機会があったら鍋で淹れてみておたまで飲んでみるといいよ。
不思議な気分になれます。
本日のおべんちゃらは以上。