4/2
自分は一体誰に認めて欲しいのか。
これはなかなかに難しい。
つまるところ何をするにしても自己承認欲求の充足に行き着くと結論するわけだが、
その欲求を満たすために他者の承認欲求を満たす必要があったりして、そのためにやりたくないことをやったり言いたくないことを言ったりする。
それが仕事や友人や恋人、そう言った関係性の中で成り立っていたりする。
最近果たして自分の幸せはどこにあるのかを考える機会が多くて、しかし考えれば考えるほど無駄な時間を費やしている気がしてならない。
そんなことしてる暇があれば曲を作れとも思うんだけど、時間を費やして手を動かすにもペース作りみたいなものがあって、それが出来ていない時は何をやっても割と無駄だったりする。
はっきりと指針が立っていない状態で行動に出るとそれ自体全部無駄だったりする場合もある。
長期的な視点で見ればその無駄すらも全て無駄ではないって結論することになるんだけど。
本当に、何でも自己分析だとか承認欲求がどうだとか、自分自分自分、いつも自分の話ばかりしている気がする。
ただそれはアーティスト型自意識過剰の一種だとわかっているし、そんな人は軽く探せば下北沢辺りにちょっとしたトライブレベルで存在することも容易に想像がつく。
ずっと家にしかいない生活はなかなかにチャレンジングで普通の人がやったら相当気が滅入るだろうし、楽しくも厳しい毎日を送っている。
ただそのゴールが一体どこなのかが、最近いまいちわからない。
「人は独りでは生きていけない」
「人は最終的には独りである」
相反しているようでどちらも正しいように思う。
言語・非言語問わず、コミュニケーションは相互理解を促進するものでしかなく、自分の考えは自分にしか完全には理解し得ない。
だからこそ面白いし、だからこそ争いも起こる。
誰かとコミュニケーションを取っていなければわからないこと、得られないことも多い。
親密になり過ぎてしまうと逆に裏切られたと感じたり、縁が切れてしまったり、そういう場面も逆にある。
他者に期待し過ぎず、独りで生きつつも人を信頼する。
そんな感覚でありたいと思うが、そのためにはやはり自己分析が必要だと思う。
何かしらの行動がうまくいかない時、原因を外的なものに求めると大抵物事はこじれる。
そういう意味では自分自分自分、という発想は悪くはないのだが、ちょっと頭のおかしい人だと思われがちだし、実際ちょっと頭おかしいのではないかと思っている。
けど人に合わせて話すことなんて出来ない。
馬鹿と天才は紙一重と言うが、これは一般人は自分に理解出来ないものを目の当たりにした時ネガティブな反応だと馬鹿、ポジティブな反応だと天才と呼ぶに過ぎないと思っている。
ちなみに天才って存在については信じていない。
ちょっと頭おかしいと思われるくらいでちょうどよく面白いんだとは思う。
しかし本当に、私は一体どこに向かっているのでしょうか。
今日は春が来たので徒歩10秒の神社の桜の木の下でアイスを食べた。
アイスなんて久しぶりに食べたが甘かった。
おじさんがジョギングで階段を上って行って、高校生ぐらいのガキがチャリで坂を下っていった。
今日も誰とも口を利いてないけど、桜の散り際に花びらがひらひら落ち続けていく様は綺麗だなと思った。
急に思い起こされた曲の中の「あたしさくらんぼ」という歌詞における、若い婦女子特有の感覚を当時刺したワードセンスはなかなかにすごいものがあるな、と思い、そして何かしようとして、忘れて家に帰った。
本日のおべんちゃらは以上。
3/21
ここ最近考えていること。
ハード面での機材が圧倒的に足りない。
クラウドファンディングでおかげさまでたくさんのお金が集まって、色々なものが動き出した。
CDのプレス、MVの制作、グッズ展開、まだわからないけどアナログレコードを切ろうなんて話から、BGMの制作依頼、弟子志願者が増えるなど。
参加してくれた皆さんには本当に感謝していて、リターンを完遂するために色々進めています。
その中で自分がしたいことと、今出来ることのギャップをやはり感じるわけです。
例えばMVなんて、良いものを撮ろうと思ったらン百万なんて予算になっちゃうみたいだし、グッズだって増やそうと思えばその分デザインやら素材やらとにかく原資が必要になる。
それらも重要だけど、問題なのは「良い音楽を作る」と言う自分本来の役割の中で、圧倒的な機材難を感じていることだ。
以前にもブログで書いたけど今の時代DTMを始めるのはとても簡単で、誰にでも間口は開いている。
けれど、クオリティの高いプロでも頷くようなものを作るためには、どうしてもちゃんとした道具が必要になる。
パソコン内で完結するソフトに関しては、プロでも使っているものが頑張れば手が届く。
けれど、マイクや楽器なんかのハード面ではどうしても手が届かないものがある。
写真や映像を撮るのに、編集ソフトがいくら良いものでもカメラが安物ではわかる人にはわかってしまうのと一緒で、良い音を録るためにはどうしてもそれ相応の機材が必要になる。
5万10万になってくるとさすがにポンポンと買うことは出来ない。
ぶっちゃけた話をすると、これまで作ったものに関しても、アコギやボーカル録りにはびっくりするくらいの安物を使っていたりする。
やはり耳の良い人というのはいるもので、最近それを指摘されることが増えた。
ごまかしは効くものではないんだなぁと。
でもクラウドファンディングで集めたお金はほとんどがもう使い道が決まってしまっていて、さてネクストステージに進むためにどうするかと考えていたわけです。
で、そこのあなたはこのブログ読むくらいだから相当僕のことを気にしてくれてる人だと思うんですけど、ちょっとこれどう思うか相談に乗って下さい。
Polcaってアプリがあるんです。
クラウドファンディングの会社Campfireが作ってるサービスで、簡単に言うとカンパアプリなんですが、
「友達の送別会をしたいので○○¥集めたいです。」
と言う人に決まった額を支払うことが出来て、支払うと設定されているお礼を受け取れるってアプリです。
新曲をこれを使って提供出来ないだろうか?と考えています。
具体的には、
先払いで設定した金額を払ってくれた方々にまずどんな曲が良いかをヒアリングします。
大体一ヶ月を目安に新曲を作ります。
さらに、その制作過程も動画か生放送かで週一くらいで公開します。
そんなに大勢でなければ個別かグループか、スカイプで話ながら作っても良いかと思っています。
最終的に出来上がったものをwav形式でお届けします。
出来上がった楽曲は後々何かしらの形でリリースされます。
会費は1000〜2000¥/曲くらいで考えてます。
曲作りはもちろん、それ以外でも様々やらねばならないことがあるので。
こう言うのあったら参加したいって方いますか?
リスナーは新曲作りをリアルタイムで知ることが出来る、僕は機材費が調達出来る。
これぞwin-winと言うやつでは?と思ったんですが、欲しい人がいなければやっても意味が無いので。
「高い」「安い」「こうだったら参加する」など、何でも意見ください。
特に金額面。自分が普段やってることを有料化するので感覚がわかりません。
各種SNSのリプライとかコメントで全然良いです。気軽に言ってください。
*すぐには始動出来ません。まだ先の話です。反応があるようであればSNSでも投げかけてみようかと思ってます。
以上よろしくお願いします。
12/29
2017年を振り返るブログ。本日は人生編。
明日はコンテンツ編になります。
まず今年を振り返るに辺り、去年の今日のブログを読んでみる。
この頃はまさに、シンガーソングライター池澤寛行としてEP「社会不適合者の独白」やそれにまつわる動画を作る活動が山を越えて、さてこれからどうするか、といった感じだった。
当時、というかこのブログ以降三ヶ月くらいは、自分が本気でイイと思えるものを作ることが出来た満足感に対して、周りの評価が全く付いて来ないことにとても不満を感じていたのを覚えている。
ライブハウスや店に音源を配って回って、SNSで宣伝して、それでも大した反応はなくて、弾き語りでライブをしてもお客さんも特に増えたりいい反応をくれることもなくて、といった感じだった。
もちろんなるべく各種レーベルにも音源を送るも、反応はゼロ。
ほとんど無いとかそういうレベルではない。ゼロだった。
それに比べると今の音楽性はまだ反応がいい方ではあるなと思う。
相変わらず各種レーベルから反応は無いけど。色んな人が自分に気付いてくれる大きなきっかけになっている。
それだけでも大きな前進になっている。
そんな去年に比べて、今年は大きな一歩となる一年だったと思う。
何よりやはりダンスミュージックに着目したのがよかったのだと思う。
ブログの最後の方でも綴っているように、今年一年はやはり世間一般的に見てもダンスミュージックの年だった。
SUKISHAを夏に始めて以来、多くの人に反応をもらえたのはその流れに乗れたからなのだと思う。
実際、8月頭に活動を始めてからの動画の伸び方、SNSでの反応は正直予想を遥かに越えていた。
「どうせまた誰も気付いてくれない」と思っていたのに、これまでとは全然違う速さで広がっていった。
気にしてくれる人が増えて、楽曲制作の依頼も増えた。
弟子にしてくれという人すら出てきた。
環境が一変したとまでは言わないが、いい感じに前に進んでいる感じはしている。
(楽曲制作依頼、弟子志願に関してはお気軽にDMやメールでご相談ください)
そして今年は、人との関係も考えさせられる年になった。
私事で恐縮ですが、31歳引きこもりニートのSUKISHAさん、2017/12/29現在でもう8年半ぐらい恋人がいません。
そんな私、今年4年ぶりくらいに人を好きになって、夏にフラれました。
今も結構悲しんでますが、それまで好感情だったものが叶わなかった故悪感情になってしまうことって多分人間関係において最も悲しい出来事の一つだと思うので、フラれた彼女には今もこれからも恒久的に幸せでいて欲しいと思っています。
それを実現させる人間が願わくば自分であって欲しかった。
恋と二日酔いはもう病気認定でいいなって思いました。
昔からそうだけど、人を好きになると頭がおかしくなる。何も出来なくなる。
こんな思いをするのはもうたくさんだなって思ったけど、きっとまたしてしまうんでしょうね。
世の中の真っ当に恋をしている人たち、及び両想いになって付き合っている恋人・夫婦たちには尊敬の念しかありません。
それにしても久しぶりに人を好きになれて、すごく新鮮というか、変な感じだった。
あの身体中の細胞が全力で喜んでる感じはほんとにすごい。
つくづく人間はホルモンの奴隷だなと思った。
閑話休題。
最後に今後の長期的な展望に関してです。
今年色々な人とコミュニケーションしニートとしてサヴァイヴしていく中で、自己分析をさらに進めることが出来ました。
自分は一生かけて何をやっていきたいか?というのも今年は明確になったなと思います。
僕の大きな目標は、世界で通用するクリエイターになることです。
Jポップ育ちなので国内市場にも執着心はあります。
まずは国内でちゃんと評価されたい。具体的にはキリンジくらいの実力派を目指したい。
星野源氏やsuchmos、米津玄師氏みたいなメインストリームの売れっ子になるつもりは実はあまり無いです。
その次はやっぱり世界に挑戦したい。
と言っても別に全米を泣かすようなヒーローになりたいわけではない。
本当に好きなものを作ってこれが自分だと全力で主張して、自分が尊敬する人たちに突き付けて、イイネと言われたい。
僕はそのために生まれてきて、音楽をやっているんだと思います。
世界の頂きはまだまだ遠い。月並みな言葉だけど、一生挑戦者でいたいです。
そしてそれすらも叶うようであれば、活動は継続しつつ、あとは夢を実現させたいと思っています。
目標と夢って違うと思う。
目標は長期的には大きく、短期的には小さく設定して小さい成功を繰り返せばいつか果たせるもの。
夢っていうのは、頑張っても叶わない可能性がある。
僕の夢は、好きなものに没頭して生産する才ある人たちが、少なくとも死なずにその活動のみで暮らしていける仕組みを作ることです。
好きなことだけやりたくて、社会に適合出来なくて表現活動を始めた人が大半なはずなのに、そういう人たちが集まるとまた別の社会が出来てなぜかみんながその見えない慣習やルールを守れと圧力をかけてしまう。
好きなことだけやっていたいから、と会社員に代表されたある程度暮らしが保証された労働方式を放棄し、先の見えないアルバイトや派遣社員をしながら活動していたら、いつの間にか自分が何をしたかったのかわからなくなってしまう人たち。
少しずつ年を取るにつれ、周りからは表現をする人は減っていき、自分は正しいと感じているはずなのに周りがみんな自分と違うことを正しいということによって認知的不協和に陥ってしまい、それでも歯を食いしばって活動を続ける全ての才あるクリエイターたち。
僕はそういう人たち全員に、「大丈夫、お前才能あるよ、才能さえあれば生きていけるよ」って言える仕組みを作りたい。
これから先の未来は、生活にかかるコストはさらに減っていくはず。
芸術や娯楽コンテンツの創造に関わる人たちは、もっと自分に自信を持っていい。
僕は日本から、もっといい音楽、いいコンテンツが国内、世界に発信される環境を作りたい。
そしてその切磋琢磨の中で、自分もいいものを作って、ほらやっぱり俺が一番かっこいいだろ!って言いたい。
創作に携わる人の中で、生きづらいって思っている人を減らしたい。
まずは来年、いい曲を作りまくります。
そして音楽好き達が放っておけないような状況を作る。
皆さんには31歳引きこもりニートがより大きな舞台へ進出し、活躍していく様を楽しく見守って頂けたらと思っています。
もちろん僕一人の意志ではどうにも出来ない大きな流れの中に巻き込まれる可能性もあると思うので、この展望は2017年末現在のものでしかありません。
が、なるべく自らの意思決定で、前に進んでいきたいと思います。
これまでもそうだったし、それで前進を続けてきた自負があります。
そしてそれを応援し続けてくれている友人たちを心から誇りに思います。
何か高まってしまった。さて年末年始モードに入りましょうか。
明日は今年聴いた音楽、読んだ漫画について振り返りたいと思います。
12/4
「音楽が好きである」ということと「好きな音楽がある」ということには大きな隔たりがあると思っている。
「音楽が好きですか?」と聞かれて「嫌い」と答える人間はいない。
ほとんどの人が好きだと答えるし、悪くても全く聞かないし興味がないと言われるくらいだ。
しかし、その好きだという人に話を聞いてみると、自分が好きなのと同じように、同じオタクレベルで好きな人というのはそうそういないことに気付く。
大体みんな邦楽の、有名でわかりやすいものを挙げる。
実際良いバンドです。
例えば漫画にしてみたって、「漫画は好きですか?」と問われて「嫌い」と答える人間はいない。
だがしかし、多くの人は漫画好きだと言う割にワンピースと銀魂と進撃の巨人ぐらいしか挙げてくれない。
実際面白い漫画です。
けれど、その都度それは「漫画が好き」なんじゃなくて、「好きな漫画がある」って言うんだよ。と僕は心の中で叫ぶわけだ。
この現象は、恐らく何か一つのコンテンツ属性をヲタクレベルで愛している人ならば一度は体験したことがあると思う。
だから古参やディープなファンが、新参を「にわか」とせせり笑うような案件が発生する。
本気で好きな人間は、調べるからだ。
好きになった対象を舐めるように、睨めるように情報を片っ端から洗う。
好きなミュージシャンができればインタビューをさらう。どんな音楽が好きなのかを調べてその彼、彼女、団体が愛したルーツを探る。
そのぐらいの気合いで愛している人が、何かを「好き」だと言うことと、軽くさらったライトなユーザーが言う「好き」にはとても大きな差がある。
その差に初めはがっかりし、その次に苛立ち、最後に諦める。きっとそんな体験をしている人は少なくないと思う。
例えばラーメンジャンキーで毎日食べ歩くような情熱のあるラーメン好きが、
「私もラーメン好きなんです〜」っていう人にどこのラーメンが好き?って聞いた時に、
「一風堂」とか言われるとがっかりするわけですよ。
それは「好きなラーメンがある」って話であって、ラーメン全体を愛しているわけではないではないかと。
で、ここで一つ疑問が生まれる。
じゃあいつになったら「○○が好き」って言っていいの?
という疑問だ。
今日二日酔いの状態でセブンイレブンの冷凍つけ麺を食べていたところパッと閃いて天啓が降りた。
解答を発表したいと思う。
恐らく、ある一つのコンテンツ属性において複数ジャンルを好きな場合は、そのコンテンツ属性を好きだと言っていい。
え?何言ってるかわからないマジ卍?
わかりやすく説明すると、
ジャズとヒップホップが好きだって言えるなら音楽好きって言って良い。
ワンオクとアレクサンドロスが好きなら邦楽ロック好きって言って良い。
無罪モラトリアムと勝訴ストリップが好きなら椎名林檎好きって言って良い。
正しい街と丸の内サディスティックが好きなら無罪モラトリアム好きって言って良い。
そういうことではないかと思っている。
ワンオクとアレクサンドロスを聴いてる人にスヌープドッグの話はわからないし、良さもきっと伝わらない。
だけど、音楽好きにはどちらもきっと話が伝わる。好きにはなれなくても、独自の着眼点で分析して感想を語れる。
正しい街と丸の内サディスティックしか知らない人と東京事変の話は出来ない。だけど無罪モラトリアムの話は出来る。
要するに集合Aの中の個体Bが好きな人は、「Bが好きなんであって、A全体を愛しているわけではない」という話だ。
多分これは何にでも当てはまる。
小説好きだと言うから好きな小説聞いてみたらハーレクインロマンスしか読んでなかった、だとがっかりだが、ハーレクインロマンスも読むけどハードSFも大好き、だと「おっコイツ独自のセンスで小説を愛してやがる」となる気がする。
二つ以上に手が伸びるというのは、十分に興味関心を持っている状態だと言えると思う。多分モチベーション的には十分に三つ目四つ目に手が伸びる。
しかしこの論で行くとワンピースと進撃の巨人が好きな人は漫画が好きということになるのか・・・少年漫画バトル系という括りであれば或いは・・・。
もちろん大きなコンテンツ属性を好きだと言える人にだって、中には好きでないものもある。
好みか好みじゃないかを判断出来るということが、ある意味ではその属性を愛していることに繋がるし、それだけ色んなものを通して自分なりの判断基準を磨いてきたことになる。
だから全てを好きである必要はない。
僕が音楽好きだからといって、ハードコアやメタルを好きである必要はない。
まあ別にこんな細かく考えなくても好きなものは好きって言えば良いとは思うんだけど。
ただ僕は何かにどっぷりハマったことのある人、何かに一生懸命な人が好きです。
言語非言語関係無しに、自分なりの視点を持ってる人が多いから。
まあつまりだ、何が言いたいかと言うと、全人類よオタクであれ、ということ。
かのちゃんこ増田もマネーの虎出演時に「オタク・イズ・ビューティフォー」と仰っている。
Boys be otaku, girls be otaku.
ちなみに音楽で言えばどうやって好きになるかっていうと、聴きまくることですね。
大して好きじゃないと思ってもめっちゃ聴いてれば結構好きになります。それで好きにならなかったとしても、特徴が自分にインプットされるんで他の音楽聴く時違いがわかるようになります。
これはビールにも言える。
よく「ビールのおいしさがわからない」っていう人がいますが、そういう人は多分味がわかるようになるほどビール飲んでない。
まずは一ヶ月週二回の休肝日を設けて同じ銘柄のビールを飲み続けるところから始めよう。
そして次の月は銘柄を変える。するとどうだろう。味の違いがわかるようになる。
するとどうだろう。どっちの方がうまいか好みが発生する。
これを繰り返していくと自分の中でビールの序列が出来る。
その中でも一番上だと感じるものが「うまい」のか、「幾分かマシ」なのかによって、あなたがビールが好きなのかがわかる。
何かを好きになるというのも、本来はこんなめんどくさい作業をしなければならないものなのだ。
物の違いがわかるようになるには比較と経験を繰り返すしかない、ってよく言うんだけど、その比較と経験をするのにストレスを伴わないものこそ胸を張って好きって言えるのかも。
僕は胸を張って音楽が好きです。
本日のおべんちゃらは以上。
11/27
最近これから先の未来の幸福について考える機会が多い。
人が幸せ、喜びを感じる行動というのは大まかに分けて3つあるのではないかと思っている。
消費、生産、共有の3つ。
この3つを個別または同時多発的に行うことで、多くの人は幸せを感じるのではないかと。
食べることで例えるならば、
消費はそれこそ食事そのもの。レストランに出かけたり、ただコンビニで何か好きなものを買って食べるでも良い。シンプルな消費活動のことだ。
生産は料理。自分で食材を買ってきて、欲しいものを自分で作る。
そして共有は誰かとその食べ物を食べて感想を言い合ったりすることだ。
「おいしいね」でも良い、「もう少し甘めが好きかな」でも良い。
誰かと共有すること。これは結構人が喜びを感じるために大事な要素なんだと思う。
多分、多くの人は今消費に喜びを感じているんだと思う。
面白いマンガ、感動出来るドラマ、おしゃれな服、おいしいご飯。
そのためにお金を稼いだり、休日はどこかに出かけたりする。
これから先の未来、多分我々の仕事や諸々はAIやロボットがやってくれるようになっていく。
多分僕らは暇になる。すると暇を潰すためにより消費活動に勤しむようになる。
今の時代ですら、ほとんどコストをかけずに音楽や動画、マンガに書籍の蓄積を消費出来る。
下手すれば現状のアーカイブだけで一生を娯楽コンテンツの消費に費やせるのではないかとすら思える量の遊びで、この世界は満ちている。
だが、慣れは人を腐らせる。
恐らく仕事が無くなり、消費活動だけを求めるようになると、人々は消費にすら飽きてしまう。
さらに言えば、何か一つのことを好きでい続けるのも才能の一つだから、ずっとコンテンツの消費に時間を割ける人もそんなにいないだろう。
きっとみんな悩み始める。
昔よく悩んでいたような、「自分は一体何がしたいのか」に代表される、アイデンティティ獲得の欲求みたいなものは、生きるか死ぬかの瀬戸際の時代や、文化が成熟する前はさほどなかったのではないかと思う。
文化が成熟して、生きることに必死である必要が無くなって、食べ物も娯楽も服も簡単に手に入るようになった時、どう感じるか?
僕はきっとみんなうまく言語化出来ない悩みを抱えると思う。
漠然とした退屈や達成感の欠如に、何か物足りなさを感じながら生きるような人が増えるのではないかと感じている。
そこで僕は生産的な趣味を持つことを強く提案したい。
本当に何でも良い。絵を書くでも、小説を書くでも音楽を作るでも。
それがハードルが高いというのなら自分の好きな何かについてブログを作って感想をアップするでも良い。
とにかく何かをアウトプットして、それを誰かと共有する活動。
それがこれから先人々を豊かにするのだと思う。
とても幸せなことに、文化の成熟・発展と共に「何かをクリエイトする」という行為のハードルは加速度的に下がっている。
音楽で例えていうならば、パソコンで作曲するいわゆるDTM(デスクトップミュージック)の世界には今無料のソフトが山ほどある。
パソコンさえあれば0円で始められる上、検索すれば使い方なんていくらでも出てくる。
歌いたければ安いマイクでも買ってくれば良い。始めるのにほとんど金はかからない。
音楽の話をさらにするならば、今の時代、「誰かがかつて作った曲の断片を何曲か別のところから持ってきてくっつけただけ」のものにすらオリジナリティが認められている。
いわゆるサンプリングという手法で、誰かが昔弾いたピアノ、誰かが昔叩いたドラム、誰かが昔弾いたベースをくっつけて、ラップするなりなんやかやしたものが普通に現代人のアートとして認められている。
もはや自分で作ってなくたっていい。ただ人が前に作ったものを混ぜて編集するだけでいい。
これからの未来は、多分僕らが「何かをクリエイトする」という行為が、歴史上で一番簡単になっていく。
そして知らない誰かと簡単に共有出来る。そんな素晴らしい時代がもう既にきている。
僕は本当に心の底から、多くの人に生産の楽しみ・喜びを知って欲しいと思っている。
本当に誰にでも出来ると思ってる。
なまじ色んな楽器が出来て本気で作っているものだから、「あなたには出来るんだろうけど普通は出来ないよ」なんて言われがちだけど、それは違う。
生産の特徴は、最初はちっとも面白くないことだ。
筋トレとかダイエットとかも生産だと思ってるんだけど、あの二つを代表例にするとわかりやすくて、最初は全然キツいだけで面白くないわけですよ。
でも我慢して続けていくと、あるタイミングで明らかな変化に気付く。
すると成果が見えて面白くなって、もっと頑張ろうと思えるようになる。
あとはもうその繰り返し。
何かを作る行為っていうのは全部そうだと思う。
その最初のハードルが存在しない人のことを「才能がある」と表現するんだろうし、多くの人はそこでつまずいてしまうんじゃないか。
けど諦めずにやりきってみれば、その先には本当に素晴らしい世界が広がっている。
やりきって出来上がった成果物っていうのは、どんなにショボかったとしても自分にとっての宝物になるし、その宝物のおかげで自分に自信も付く。
前より自分が好きになれる。
さらに生産の素晴らしい点は、あるジャンルに深く関わることで優劣などの違いがわかるようになることだ。
自分で作ってみて初めてわかることは驚くほど多い。
きっとそれまではわからなかった別の誰かの作品に感銘を受ける機会が増える。
友人はそれを「文化を愛でる心が育つ」と表現していた。
素晴らしいことだと思う。
僕は本当に社会不適合で音楽以外何も出来ないしニートでお金無いし毎月家賃どうするか悩んでるしカッツカツの生活をしてるけど、それでも今が人生で一番幸せだし楽しいって思える。
それはなんでかって、やっぱり生産し続けているからなんだと思うんです。
少しずつだけど確実に前進していく幸せを知ってもらえたら、きっと今より幸せな人が増えるんじゃないだろうか。
うまい下手っていうのはもちろんあると思う。かっこいいダサいも面白いつまらないもある。
けどそれってそれぞれの主観で判断されるものだから、自分が作ったものがダサいって言われたって気にする必要なんて全くない。
「ああこの人はセンスが無いんだな」くらいに思っておくか、「そりゃ趣味で作ってんだから」とか「今に見てろ」って思っておけば良い。
満場一致の駄作が出来たって、ヘコむ必要は無い。
いつかは自分も他の誰かを納得させられるものを作ってみせる。その過程を楽しむ。
そのぐらいのつもりでいればいい。
そのために、真剣な感想をくれる人のところに行こう。
そして何がダメなのか議論して、また一つそのジャンルを好きになればいい。
インターネットがくれた無限大のチャンスを活用しようじゃないか。
長々と書いてきたけど、今は本当に良い時代だと思っている。
気が付けばそこら中で、誰かが勝手に何かを作って発表している。
そんな未来が実現出来たら、きっと楽しい。
それを実現するための何かアクションが起こせたらなと、よく思います。
そんな話でした。
ところで去年イベントで酔っぱらっててダウンジャケットを捨てられてしまったので、冬を乗り切る防寒着が無い。
このままでは本格的に寒くなった時外に出られない。誰か余ってたらくれ。
越冬という絶対に負けられない戦いが今、始まる・・・。
本日のおべんちゃらは以上です。
10/2
高校生の頃、出身大学を見学しに行ったことがある。
長野に住んでいた一般的な高校生の僕にとって、東京は一定憧れがあった。
大学を見学しに行くという体を取ればそこそこ東京で遊ぶことが出来るだろうという目算があった。
既に上京していた友人と東京で会う約束をして見て回った。
不思議と楽しかった思い出はない。
色々あって有り金を失った。決していかがわしい店でどうだとかカツアゲされたとかそういう話ではなく、本来持っているはずのものを失って、若かった僕はそこそこ動揺した。
それでも一応大学の見学には行った。
その時まさに大学祭が行われていて、南大沢は賑わっていた。
今にしてみれば大学生のガキどもがワイワイしているだけのごくごく一般的なその催しは、路銀もなく友人もいない若干18歳田舎育ちのさらなるガキからしてみれば、それはそれは心細さを喚起させるものだった。
当たり前のことだが、インターネット黎明期が若干過ぎ去った頃、BBS(死語)などで趣味について語り合っていた地方のマセガキの音楽リテラシーは低い。
そこそこ大学祭の野外ステージやジャズ研の演奏に感銘を受け期待を抱き、大学を後にしたのを覚えている。
そして帰り際、止めでも刺されるかのように携帯が壊れた。
疲れと絶望とは裏腹にどうにもならないまま長野駅に着いて、何とか親に連絡を取ると父が迎えに来た。
父は僕の一連の失敗を咎めた。
というのも、そもそもこの旅は初めからうまくいっていなかった。
僕の準備があまりにずさんだったため。長野発東京行きの高速バスに乗るためには、父が駅まで送る車は法定速度を超えて急がなければならなかった。
それ故行きの車の中の空気は気まずかったし、必要以上に急いだ結果、父の運転する車は急に飛び出してきた小学生の女の子と接触してしまう結果となった。
その小学生の女の子が、急いでいるしなるべく迅速に対処したい我ら親子の意志とは完全に裏腹に、外界との接触を絶つかのように、何かわけのわからないことを言いながらブレイクダンスのような動きを取っていたのをかすかに覚えている。
小学生なんてそんなもんなんだろう。
僕はその時自分以外の全てを憎んでいたような気がする。
父が焦って彼女を道路の外に連れて行こうとして、それを彼女が嫌がるのを見ている時間、その分だけ後ろで並んでいる車は増えていく。
僕が東京行きのバスに乗れる可能性も下がっていく。
誰かのせいにすることしか出来なかった。原因を自分以外に求めることしか出来なかった。
一番わかりやすい対象が彼女だった。
今も覚えているくらいだから、その彼女に対する憎悪はかなり大きかったのだと思う。
結局バスには間に合ったがそんな出来事があったから、東京への旅路には暗雲立ち込めていたし、実際うまくいかなかった。
(誤解されそうだから付け加えておくと父はその件に関して法的な罰など受ける立場にはなかった)
帰って来る頃の僕は心身共に疲弊していて、その頃の自分を取り巻く環境も相まって、本当に最悪の気分だったことを覚えている。
しかもそれを父のせいにしようとしていたような気がしている。
今思えば父は単純に子を想い、息子である自分に何かあったらどうするんだと咎めたかったのだと思う。
しかしその思いは不出来な息子にはまるで伝わっていなかった。
それどころか反発心を煽る結果となっていた。
腹に据えかねる、ぶつけどころのない怒りを抱えつつ家に帰ると、母はビーフシチューを作って待っていた。
母が聡明だったと思うところは、何も言わずにまず黙ってビーフシチューを出す。
そして何かこちらが喋り出すのを待つ。或いは強気に出ずに諭すようにこちらの話し出すのを待ったところだった。
ずっと泣きそうだったのを今でも覚えている。誰に何をぶつけていいのかわからなかった。
ぶつけることを恥なのではないかとも感じていた。
大学を卒業して東京で働く姉は、良い給料をもらいつつも久々に会う弟にとんかつをおごりながら、それでも今の家族の状況を憂いていた。
その当時、我々家族の中に、現状を冷静に分析してもっとも効果的な施策を捻り出し実施出来るような人間は一人もいなかった。
池澤家はみんな情が深い。そしていい意味でも悪い意味でも、日本の一般的な家庭の一つだった。
故に論理のみでひた走るようなことは誰にも出来なかった。
僕もまた、その姉の話を聞いたり家族が苦悩しているのをみて、高校生なりに考え苦しみ、屈折し続けていた。
ビーフシチューは特に好物ではない。
自分が料理を今も楽しめるのはきっと母の料理及び教育があったからだと思っているが、母の料理一品一品に特別深い思い出があるわけではない。
けれど、この時出てきたのがビーフシチューだったというのは今でも鮮烈に、明確に覚えている。
そのビーフシチューを食べながら、母に一体どんなことがあって何を感じたのか話そうとした時、居間でテレビを見ていた父がこちらに来てまた小言をひとくさり言った。
正直限界だった。
そこそこ内気でアーティスティックな上に純粋で繊細(笑)な池澤少年にとって、それは我慢出来る状況ではなかった。
父に何か汚い言葉をかけて、ビーフシチューを食べるのもやめて、部屋に戻って一人で泣いた。
あの時のあの気持ち、部屋の家具の位置、気温、そういった一つ一つを今でもはっきりと思い出せるのだから、人間の記憶能力というのは侮れない。
泣き腫らしていると母が入ってきて、父を擁護する。
何なんだこの地獄絵図は。
恐らく今ぐらいの客観性を持って接していられれば僕はそう感想を持っただろう。
何をどうすればいいのか本当にわからなかった。
自分は一体何で生きているのか、親は何を楽しみに生きているのか。
みんな一体どうして大学に行くのか。
勉強しているやつらが誰も楽しそうに見えなかった。
自分の居場所は放課後、誰よりも早く向かったクラブ練習室と、真夜中友人と遊び狂うあの空間だけだった。
そう思いながら暮らしていた高校生活を、なぜかビーフシチューたった一つで思い出す。
青年だか中年だかになった池澤くんからすれば、池澤少年の苦悩は到底共感出来るような話ではない。
人は自分の立つ場所によって、想像すら奪われる。のかもしれない。
と、いうようなショートストーリーが今お酒を飲んでいたら思い浮かんだよおおおおアヒイイイイイイ
明日も元気に曲作ろうねエエエエエエエエエエエエ
8/23
最近は何もやる気が起きなくて、ずっと立ったり座ったり、息吸ったり吐いたりするだけの生活をしていた。
けどやっぱり日々やらなきゃいけないことというのは確実にあって、というかそれに救われてる人もたくさんいるだろうしそれでよくて、
そういうのも全部放棄してグダグダしていたんだけど、
久しぶりにspotify開いて音楽聴いてみたらなんかやる気出たから曲作り始めてみたら、やっぱ楽しくてすごく元気になった。
夢中になれるものがあるって素晴らしい。
だせーなぁとか、キタキタこの瞬間を待っていた!とか、いつもこの進行に逃げがちだよね、とか、そういうの一つ一つがそういえば俺好きだったんだなぁって思いました。
やる気が出てきたので新曲をたくさん作りたいと思います。
誰とも話す気が起きない時に誰かと話すとすごく元気になる。
何にも笑える気がしないのに何か見て笑いが溢れる時がある。
もう自分が根底から作りたいものなんかないんじゃないかって思っても、作れば楽しいしもっとやれると思う。
神はなぜこのような仕様で人間を作ったのか。
耳たぶ捻ったら脳内麻薬分泌されて全員楽しくなれるような設計にした方が絶対みんな幸せだったろ。
僕は幸せな部類ですよ。
耳たぶ捻らなくたって音楽作ってれば脳内麻薬を分泌させられるからね。