12/4
「音楽が好きである」ということと「好きな音楽がある」ということには大きな隔たりがあると思っている。
「音楽が好きですか?」と聞かれて「嫌い」と答える人間はいない。
ほとんどの人が好きだと答えるし、悪くても全く聞かないし興味がないと言われるくらいだ。
しかし、その好きだという人に話を聞いてみると、自分が好きなのと同じように、同じオタクレベルで好きな人というのはそうそういないことに気付く。
大体みんな邦楽の、有名でわかりやすいものを挙げる。
実際良いバンドです。
例えば漫画にしてみたって、「漫画は好きですか?」と問われて「嫌い」と答える人間はいない。
だがしかし、多くの人は漫画好きだと言う割にワンピースと銀魂と進撃の巨人ぐらいしか挙げてくれない。
実際面白い漫画です。
けれど、その都度それは「漫画が好き」なんじゃなくて、「好きな漫画がある」って言うんだよ。と僕は心の中で叫ぶわけだ。
この現象は、恐らく何か一つのコンテンツ属性をヲタクレベルで愛している人ならば一度は体験したことがあると思う。
だから古参やディープなファンが、新参を「にわか」とせせり笑うような案件が発生する。
本気で好きな人間は、調べるからだ。
好きになった対象を舐めるように、睨めるように情報を片っ端から洗う。
好きなミュージシャンができればインタビューをさらう。どんな音楽が好きなのかを調べてその彼、彼女、団体が愛したルーツを探る。
そのぐらいの気合いで愛している人が、何かを「好き」だと言うことと、軽くさらったライトなユーザーが言う「好き」にはとても大きな差がある。
その差に初めはがっかりし、その次に苛立ち、最後に諦める。きっとそんな体験をしている人は少なくないと思う。
例えばラーメンジャンキーで毎日食べ歩くような情熱のあるラーメン好きが、
「私もラーメン好きなんです〜」っていう人にどこのラーメンが好き?って聞いた時に、
「一風堂」とか言われるとがっかりするわけですよ。
それは「好きなラーメンがある」って話であって、ラーメン全体を愛しているわけではないではないかと。
で、ここで一つ疑問が生まれる。
じゃあいつになったら「○○が好き」って言っていいの?
という疑問だ。
今日二日酔いの状態でセブンイレブンの冷凍つけ麺を食べていたところパッと閃いて天啓が降りた。
解答を発表したいと思う。
恐らく、ある一つのコンテンツ属性において複数ジャンルを好きな場合は、そのコンテンツ属性を好きだと言っていい。
え?何言ってるかわからないマジ卍?
わかりやすく説明すると、
ジャズとヒップホップが好きだって言えるなら音楽好きって言って良い。
ワンオクとアレクサンドロスが好きなら邦楽ロック好きって言って良い。
無罪モラトリアムと勝訴ストリップが好きなら椎名林檎好きって言って良い。
正しい街と丸の内サディスティックが好きなら無罪モラトリアム好きって言って良い。
そういうことではないかと思っている。
ワンオクとアレクサンドロスを聴いてる人にスヌープドッグの話はわからないし、良さもきっと伝わらない。
だけど、音楽好きにはどちらもきっと話が伝わる。好きにはなれなくても、独自の着眼点で分析して感想を語れる。
正しい街と丸の内サディスティックしか知らない人と東京事変の話は出来ない。だけど無罪モラトリアムの話は出来る。
要するに集合Aの中の個体Bが好きな人は、「Bが好きなんであって、A全体を愛しているわけではない」という話だ。
多分これは何にでも当てはまる。
小説好きだと言うから好きな小説聞いてみたらハーレクインロマンスしか読んでなかった、だとがっかりだが、ハーレクインロマンスも読むけどハードSFも大好き、だと「おっコイツ独自のセンスで小説を愛してやがる」となる気がする。
二つ以上に手が伸びるというのは、十分に興味関心を持っている状態だと言えると思う。多分モチベーション的には十分に三つ目四つ目に手が伸びる。
しかしこの論で行くとワンピースと進撃の巨人が好きな人は漫画が好きということになるのか・・・少年漫画バトル系という括りであれば或いは・・・。
もちろん大きなコンテンツ属性を好きだと言える人にだって、中には好きでないものもある。
好みか好みじゃないかを判断出来るということが、ある意味ではその属性を愛していることに繋がるし、それだけ色んなものを通して自分なりの判断基準を磨いてきたことになる。
だから全てを好きである必要はない。
僕が音楽好きだからといって、ハードコアやメタルを好きである必要はない。
まあ別にこんな細かく考えなくても好きなものは好きって言えば良いとは思うんだけど。
ただ僕は何かにどっぷりハマったことのある人、何かに一生懸命な人が好きです。
言語非言語関係無しに、自分なりの視点を持ってる人が多いから。
まあつまりだ、何が言いたいかと言うと、全人類よオタクであれ、ということ。
かのちゃんこ増田もマネーの虎出演時に「オタク・イズ・ビューティフォー」と仰っている。
Boys be otaku, girls be otaku.
ちなみに音楽で言えばどうやって好きになるかっていうと、聴きまくることですね。
大して好きじゃないと思ってもめっちゃ聴いてれば結構好きになります。それで好きにならなかったとしても、特徴が自分にインプットされるんで他の音楽聴く時違いがわかるようになります。
これはビールにも言える。
よく「ビールのおいしさがわからない」っていう人がいますが、そういう人は多分味がわかるようになるほどビール飲んでない。
まずは一ヶ月週二回の休肝日を設けて同じ銘柄のビールを飲み続けるところから始めよう。
そして次の月は銘柄を変える。するとどうだろう。味の違いがわかるようになる。
するとどうだろう。どっちの方がうまいか好みが発生する。
これを繰り返していくと自分の中でビールの序列が出来る。
その中でも一番上だと感じるものが「うまい」のか、「幾分かマシ」なのかによって、あなたがビールが好きなのかがわかる。
何かを好きになるというのも、本来はこんなめんどくさい作業をしなければならないものなのだ。
物の違いがわかるようになるには比較と経験を繰り返すしかない、ってよく言うんだけど、その比較と経験をするのにストレスを伴わないものこそ胸を張って好きって言えるのかも。
僕は胸を張って音楽が好きです。
本日のおべんちゃらは以上。
11/27
最近これから先の未来の幸福について考える機会が多い。
人が幸せ、喜びを感じる行動というのは大まかに分けて3つあるのではないかと思っている。
消費、生産、共有の3つ。
この3つを個別または同時多発的に行うことで、多くの人は幸せを感じるのではないかと。
食べることで例えるならば、
消費はそれこそ食事そのもの。レストランに出かけたり、ただコンビニで何か好きなものを買って食べるでも良い。シンプルな消費活動のことだ。
生産は料理。自分で食材を買ってきて、欲しいものを自分で作る。
そして共有は誰かとその食べ物を食べて感想を言い合ったりすることだ。
「おいしいね」でも良い、「もう少し甘めが好きかな」でも良い。
誰かと共有すること。これは結構人が喜びを感じるために大事な要素なんだと思う。
多分、多くの人は今消費に喜びを感じているんだと思う。
面白いマンガ、感動出来るドラマ、おしゃれな服、おいしいご飯。
そのためにお金を稼いだり、休日はどこかに出かけたりする。
これから先の未来、多分我々の仕事や諸々はAIやロボットがやってくれるようになっていく。
多分僕らは暇になる。すると暇を潰すためにより消費活動に勤しむようになる。
今の時代ですら、ほとんどコストをかけずに音楽や動画、マンガに書籍の蓄積を消費出来る。
下手すれば現状のアーカイブだけで一生を娯楽コンテンツの消費に費やせるのではないかとすら思える量の遊びで、この世界は満ちている。
だが、慣れは人を腐らせる。
恐らく仕事が無くなり、消費活動だけを求めるようになると、人々は消費にすら飽きてしまう。
さらに言えば、何か一つのことを好きでい続けるのも才能の一つだから、ずっとコンテンツの消費に時間を割ける人もそんなにいないだろう。
きっとみんな悩み始める。
昔よく悩んでいたような、「自分は一体何がしたいのか」に代表される、アイデンティティ獲得の欲求みたいなものは、生きるか死ぬかの瀬戸際の時代や、文化が成熟する前はさほどなかったのではないかと思う。
文化が成熟して、生きることに必死である必要が無くなって、食べ物も娯楽も服も簡単に手に入るようになった時、どう感じるか?
僕はきっとみんなうまく言語化出来ない悩みを抱えると思う。
漠然とした退屈や達成感の欠如に、何か物足りなさを感じながら生きるような人が増えるのではないかと感じている。
そこで僕は生産的な趣味を持つことを強く提案したい。
本当に何でも良い。絵を書くでも、小説を書くでも音楽を作るでも。
それがハードルが高いというのなら自分の好きな何かについてブログを作って感想をアップするでも良い。
とにかく何かをアウトプットして、それを誰かと共有する活動。
それがこれから先人々を豊かにするのだと思う。
とても幸せなことに、文化の成熟・発展と共に「何かをクリエイトする」という行為のハードルは加速度的に下がっている。
音楽で例えていうならば、パソコンで作曲するいわゆるDTM(デスクトップミュージック)の世界には今無料のソフトが山ほどある。
パソコンさえあれば0円で始められる上、検索すれば使い方なんていくらでも出てくる。
歌いたければ安いマイクでも買ってくれば良い。始めるのにほとんど金はかからない。
音楽の話をさらにするならば、今の時代、「誰かがかつて作った曲の断片を何曲か別のところから持ってきてくっつけただけ」のものにすらオリジナリティが認められている。
いわゆるサンプリングという手法で、誰かが昔弾いたピアノ、誰かが昔叩いたドラム、誰かが昔弾いたベースをくっつけて、ラップするなりなんやかやしたものが普通に現代人のアートとして認められている。
もはや自分で作ってなくたっていい。ただ人が前に作ったものを混ぜて編集するだけでいい。
これからの未来は、多分僕らが「何かをクリエイトする」という行為が、歴史上で一番簡単になっていく。
そして知らない誰かと簡単に共有出来る。そんな素晴らしい時代がもう既にきている。
僕は本当に心の底から、多くの人に生産の楽しみ・喜びを知って欲しいと思っている。
本当に誰にでも出来ると思ってる。
なまじ色んな楽器が出来て本気で作っているものだから、「あなたには出来るんだろうけど普通は出来ないよ」なんて言われがちだけど、それは違う。
生産の特徴は、最初はちっとも面白くないことだ。
筋トレとかダイエットとかも生産だと思ってるんだけど、あの二つを代表例にするとわかりやすくて、最初は全然キツいだけで面白くないわけですよ。
でも我慢して続けていくと、あるタイミングで明らかな変化に気付く。
すると成果が見えて面白くなって、もっと頑張ろうと思えるようになる。
あとはもうその繰り返し。
何かを作る行為っていうのは全部そうだと思う。
その最初のハードルが存在しない人のことを「才能がある」と表現するんだろうし、多くの人はそこでつまずいてしまうんじゃないか。
けど諦めずにやりきってみれば、その先には本当に素晴らしい世界が広がっている。
やりきって出来上がった成果物っていうのは、どんなにショボかったとしても自分にとっての宝物になるし、その宝物のおかげで自分に自信も付く。
前より自分が好きになれる。
さらに生産の素晴らしい点は、あるジャンルに深く関わることで優劣などの違いがわかるようになることだ。
自分で作ってみて初めてわかることは驚くほど多い。
きっとそれまではわからなかった別の誰かの作品に感銘を受ける機会が増える。
友人はそれを「文化を愛でる心が育つ」と表現していた。
素晴らしいことだと思う。
僕は本当に社会不適合で音楽以外何も出来ないしニートでお金無いし毎月家賃どうするか悩んでるしカッツカツの生活をしてるけど、それでも今が人生で一番幸せだし楽しいって思える。
それはなんでかって、やっぱり生産し続けているからなんだと思うんです。
少しずつだけど確実に前進していく幸せを知ってもらえたら、きっと今より幸せな人が増えるんじゃないだろうか。
うまい下手っていうのはもちろんあると思う。かっこいいダサいも面白いつまらないもある。
けどそれってそれぞれの主観で判断されるものだから、自分が作ったものがダサいって言われたって気にする必要なんて全くない。
「ああこの人はセンスが無いんだな」くらいに思っておくか、「そりゃ趣味で作ってんだから」とか「今に見てろ」って思っておけば良い。
満場一致の駄作が出来たって、ヘコむ必要は無い。
いつかは自分も他の誰かを納得させられるものを作ってみせる。その過程を楽しむ。
そのぐらいのつもりでいればいい。
そのために、真剣な感想をくれる人のところに行こう。
そして何がダメなのか議論して、また一つそのジャンルを好きになればいい。
インターネットがくれた無限大のチャンスを活用しようじゃないか。
長々と書いてきたけど、今は本当に良い時代だと思っている。
気が付けばそこら中で、誰かが勝手に何かを作って発表している。
そんな未来が実現出来たら、きっと楽しい。
それを実現するための何かアクションが起こせたらなと、よく思います。
そんな話でした。
ところで去年イベントで酔っぱらっててダウンジャケットを捨てられてしまったので、冬を乗り切る防寒着が無い。
このままでは本格的に寒くなった時外に出られない。誰か余ってたらくれ。
越冬という絶対に負けられない戦いが今、始まる・・・。
本日のおべんちゃらは以上です。
10/2
高校生の頃、出身大学を見学しに行ったことがある。
長野に住んでいた一般的な高校生の僕にとって、東京は一定憧れがあった。
大学を見学しに行くという体を取ればそこそこ東京で遊ぶことが出来るだろうという目算があった。
既に上京していた友人と東京で会う約束をして見て回った。
不思議と楽しかった思い出はない。
色々あって有り金を失った。決していかがわしい店でどうだとかカツアゲされたとかそういう話ではなく、本来持っているはずのものを失って、若かった僕はそこそこ動揺した。
それでも一応大学の見学には行った。
その時まさに大学祭が行われていて、南大沢は賑わっていた。
今にしてみれば大学生のガキどもがワイワイしているだけのごくごく一般的なその催しは、路銀もなく友人もいない若干18歳田舎育ちのさらなるガキからしてみれば、それはそれは心細さを喚起させるものだった。
当たり前のことだが、インターネット黎明期が若干過ぎ去った頃、BBS(死語)などで趣味について語り合っていた地方のマセガキの音楽リテラシーは低い。
そこそこ大学祭の野外ステージやジャズ研の演奏に感銘を受け期待を抱き、大学を後にしたのを覚えている。
そして帰り際、止めでも刺されるかのように携帯が壊れた。
疲れと絶望とは裏腹にどうにもならないまま長野駅に着いて、何とか親に連絡を取ると父が迎えに来た。
父は僕の一連の失敗を咎めた。
というのも、そもそもこの旅は初めからうまくいっていなかった。
僕の準備があまりにずさんだったため。長野発東京行きの高速バスに乗るためには、父が駅まで送る車は法定速度を超えて急がなければならなかった。
それ故行きの車の中の空気は気まずかったし、必要以上に急いだ結果、父の運転する車は急に飛び出してきた小学生の女の子と接触してしまう結果となった。
その小学生の女の子が、急いでいるしなるべく迅速に対処したい我ら親子の意志とは完全に裏腹に、外界との接触を絶つかのように、何かわけのわからないことを言いながらブレイクダンスのような動きを取っていたのをかすかに覚えている。
小学生なんてそんなもんなんだろう。
僕はその時自分以外の全てを憎んでいたような気がする。
父が焦って彼女を道路の外に連れて行こうとして、それを彼女が嫌がるのを見ている時間、その分だけ後ろで並んでいる車は増えていく。
僕が東京行きのバスに乗れる可能性も下がっていく。
誰かのせいにすることしか出来なかった。原因を自分以外に求めることしか出来なかった。
一番わかりやすい対象が彼女だった。
今も覚えているくらいだから、その彼女に対する憎悪はかなり大きかったのだと思う。
結局バスには間に合ったがそんな出来事があったから、東京への旅路には暗雲立ち込めていたし、実際うまくいかなかった。
(誤解されそうだから付け加えておくと父はその件に関して法的な罰など受ける立場にはなかった)
帰って来る頃の僕は心身共に疲弊していて、その頃の自分を取り巻く環境も相まって、本当に最悪の気分だったことを覚えている。
しかもそれを父のせいにしようとしていたような気がしている。
今思えば父は単純に子を想い、息子である自分に何かあったらどうするんだと咎めたかったのだと思う。
しかしその思いは不出来な息子にはまるで伝わっていなかった。
それどころか反発心を煽る結果となっていた。
腹に据えかねる、ぶつけどころのない怒りを抱えつつ家に帰ると、母はビーフシチューを作って待っていた。
母が聡明だったと思うところは、何も言わずにまず黙ってビーフシチューを出す。
そして何かこちらが喋り出すのを待つ。或いは強気に出ずに諭すようにこちらの話し出すのを待ったところだった。
ずっと泣きそうだったのを今でも覚えている。誰に何をぶつけていいのかわからなかった。
ぶつけることを恥なのではないかとも感じていた。
大学を卒業して東京で働く姉は、良い給料をもらいつつも久々に会う弟にとんかつをおごりながら、それでも今の家族の状況を憂いていた。
その当時、我々家族の中に、現状を冷静に分析してもっとも効果的な施策を捻り出し実施出来るような人間は一人もいなかった。
池澤家はみんな情が深い。そしていい意味でも悪い意味でも、日本の一般的な家庭の一つだった。
故に論理のみでひた走るようなことは誰にも出来なかった。
僕もまた、その姉の話を聞いたり家族が苦悩しているのをみて、高校生なりに考え苦しみ、屈折し続けていた。
ビーフシチューは特に好物ではない。
自分が料理を今も楽しめるのはきっと母の料理及び教育があったからだと思っているが、母の料理一品一品に特別深い思い出があるわけではない。
けれど、この時出てきたのがビーフシチューだったというのは今でも鮮烈に、明確に覚えている。
そのビーフシチューを食べながら、母に一体どんなことがあって何を感じたのか話そうとした時、居間でテレビを見ていた父がこちらに来てまた小言をひとくさり言った。
正直限界だった。
そこそこ内気でアーティスティックな上に純粋で繊細(笑)な池澤少年にとって、それは我慢出来る状況ではなかった。
父に何か汚い言葉をかけて、ビーフシチューを食べるのもやめて、部屋に戻って一人で泣いた。
あの時のあの気持ち、部屋の家具の位置、気温、そういった一つ一つを今でもはっきりと思い出せるのだから、人間の記憶能力というのは侮れない。
泣き腫らしていると母が入ってきて、父を擁護する。
何なんだこの地獄絵図は。
恐らく今ぐらいの客観性を持って接していられれば僕はそう感想を持っただろう。
何をどうすればいいのか本当にわからなかった。
自分は一体何で生きているのか、親は何を楽しみに生きているのか。
みんな一体どうして大学に行くのか。
勉強しているやつらが誰も楽しそうに見えなかった。
自分の居場所は放課後、誰よりも早く向かったクラブ練習室と、真夜中友人と遊び狂うあの空間だけだった。
そう思いながら暮らしていた高校生活を、なぜかビーフシチューたった一つで思い出す。
青年だか中年だかになった池澤くんからすれば、池澤少年の苦悩は到底共感出来るような話ではない。
人は自分の立つ場所によって、想像すら奪われる。のかもしれない。
と、いうようなショートストーリーが今お酒を飲んでいたら思い浮かんだよおおおおアヒイイイイイイ
明日も元気に曲作ろうねエエエエエエエエエエエエ
8/23
最近は何もやる気が起きなくて、ずっと立ったり座ったり、息吸ったり吐いたりするだけの生活をしていた。
けどやっぱり日々やらなきゃいけないことというのは確実にあって、というかそれに救われてる人もたくさんいるだろうしそれでよくて、
そういうのも全部放棄してグダグダしていたんだけど、
久しぶりにspotify開いて音楽聴いてみたらなんかやる気出たから曲作り始めてみたら、やっぱ楽しくてすごく元気になった。
夢中になれるものがあるって素晴らしい。
だせーなぁとか、キタキタこの瞬間を待っていた!とか、いつもこの進行に逃げがちだよね、とか、そういうの一つ一つがそういえば俺好きだったんだなぁって思いました。
やる気が出てきたので新曲をたくさん作りたいと思います。
誰とも話す気が起きない時に誰かと話すとすごく元気になる。
何にも笑える気がしないのに何か見て笑いが溢れる時がある。
もう自分が根底から作りたいものなんかないんじゃないかって思っても、作れば楽しいしもっとやれると思う。
神はなぜこのような仕様で人間を作ったのか。
耳たぶ捻ったら脳内麻薬分泌されて全員楽しくなれるような設計にした方が絶対みんな幸せだったろ。
僕は幸せな部類ですよ。
耳たぶ捻らなくたって音楽作ってれば脳内麻薬を分泌させられるからね。
8/15
自分が自分であることから逃れることは誰にも出来ない。
基本的に、人は常に変化し続けるものだと思っている。
多かれ少なかれ、長期的短期的、程度の違いはあれど、微弱でも少しずつ人は変化する。
現状維持というのは本質的には不可能で、ミクロに見てみればそれは必ず好循環か悪循環に向かっているものだと。そう思っている。
だからその変化し続ける自分というのを受け入れるために、反対意見やdisであろうと、まるで自分と食い違った意見でもまずは聞いて考えてみることを大事にしている。
幸いにも、自分には多方面に世話を焼いてくれる人がいる。
思ったことを言うと、「それは違う」だとか、「もっとこうした方がいい」だとかそういうことを言ってくれる。
それを検討考慮して、自分のやりたいこととのバランスを取って、じゃあもっとこうしてみよう、と別のアプローチであったり作風であったり考え方であったりを取り入れてみる。
そしてそうしてみると確かに手応えが違ってくる。つくづく自分一人に出来ることなどたかが知れてる。そう思う。
しかしそうなってくると、結局自分のやりたいことってなんだった?
このやり方でもっと大きくなって成功して俺は楽しいんだったか?
という疑問はもちろん湧いてくる。それまでのやり方を変えるわけだから。
俺の作りたいものは、誰かに届けたくて作っているんだったか?
もっと自分の根源にある、「自分は何者でありたいのか?」という問いを、
人生の中で最も感銘を受けた音楽という素晴らしい文化を使って、発信したいのではなかったか?
屈折した、鬱屈した思春期。
苦しんでいる家族を見て「この人たちは何のために、何がしたくて生きているんだろう」とまるで他人事のように俯瞰で見つめていたあの頃に、
最終的に自分に返ってきた「じゃあお前は何がしたいの?」という問いに、
10年以上経った今でもちゃんと「俺はこういう人間だ、これが俺なんだ」って言いたくて、だから音楽作ってるんじゃないの?
届けたい相手なんて元々いたか?
お前は誰かにこの曲イイネって言われたくて作ってたのか?
などと思いを巡らせてしまうタイミングというのはもちろんある。
だがしかし、発信する以上人に評価されたい、気付いてもらいたい、いいと言ってもらいたいという気持ちは当時にしたって今にしたって当然に発生するもので、
こういう考え方は多分子供じみた感傷に過ぎないのだろう。
気持ちやイメージの問題でしかない。
要するにただの無い物ねだりで、何とも自分らしい下らない考え方だ、とも思う。
変化し続ける自分を受け入れているはずが、相変わらず自分らしさというやつを感じるというわけだ。
体の全ての細胞は三ヶ月で全部入れ替わってしまうという。
それでも我々は同じ生き物として生きていく。
どんなに考え方が変化しようと、どんな価値観に自分が影響を受けようとも、
自分が自分であるということから逃れることは誰にも出来ない。
最終的に全くの別人になってしまったとしても、やはり自分は自分でしかない。
交友関係が完全に変わってしまったとしても、貧乏だろうが金持ちだろうが、根底にある人間性というのは三つ子の魂云々というやつなのだろう。
何歳になったって、自分は他者から学びたいと思うし、変化したいと思う。
よく「その年になってそれならもうその人は変わらないよ」なんて言うけど、俺はそんなことないと思う。
誰だって、いつだって望めば、受け入れればきっといい方向に変われるはずなんだ。
その一つの証人になれたらと思う。
それでも自分であることはきっと変わらない。
俺は変化し続ける一つの個性であり続けたい。
6/25
amazonプライムビデオとかいうマジ素晴らしい文明の利器で、アルコホールを摂取しながらおっさんが居酒屋を来訪するビデオを見る。
レシピを淡々と料理する系の何がしかであったり、ただ大食いの何者かがひたすら食べるであったり、何者かが酒を飲んで幸せそうにしている様子を映像に残したものがとても好きで、暇な時見たりしている。
僕からすれば、よく食べる人というのはそれだけで魅力的に写る。
僕は食べるのは好きだけど、胃腸が弱いらしくあまり食べられない。
どちらかというと自分が作ったものを誰かがおいしそうに食べるのを見てる方が幸せだ。
基本的に一人で音楽作ったりアーアー言ってるだけの日常だから、社会との接点としてというか誰かに必要とされていると改めて実感出来るというのが大きいのかもしれない。
何より感謝されるというのがいい。趣味と実益。需要と供給の一致。承認欲求の充足。
酒は飲むが、飲みすぎると二日酔いが胃に来る。
頭が痛くなったことはないが、吐き気は酷い時は本当に酷い。
最近だと本来40分程度で帰れる帰路において、降りる必要のない駅で3回降りてその都度トイレで吐き、実際帰るのに2時間かかったことがあり、もう2度と深酒はしまいと誓ったことがある。
無論その誓いが守られることはない。
脈絡ないが、よく食べて飲む人たちを見てるのが好きなんです。
で、今日それをディスプレイ上でおっさんたちがやってんのを漠然と見ていたと。
そんであーこの人もうよぼよぼだなーとか、あーこの人発言の合間にあーとかうーとか挟まってんなーおっさんだなーとか思って見てたんですけど、僕レベルの自意識過剰になってくると、じゃあ自分どーなん?って疑問が浮かび上がってくるんですよ。
この動画が撮られたのは2007年。
今ちょうど10年後です。
彼らの10年、自分の10年、さらに若い者たちの10年に思いを馳せるわけです。
その時点で50代、60代だったであろう人たちがディスプレイに映り込んでいる。
どうなってるよ自分。10年ひと昔って言葉はとても言い得て妙というか、確かに10
年って区切りいい上に何か世の中の文化とか価値観とか変わってること多いなって思うんですよ。
その中で、自分にとっては前の10年間は価値あるものだったなって思う。
そんでこっからの10年どうすんのよ?って疑問が湧いてくると真剣にならざるを得ないですよね。
なんつーか、映像見てて、「この人らの10年と自分の10年は長さとか変化とかそういう色んなものが違うんだろうな」って思ったんですよ。
段々若くなくなっていく自分がこれからの10年でやれることって何よ?
っていう問いを何となく感じましたよね。
っていうかただおっさんが酒飲んでるだけの映像からそんな問題提起をピックアップすんなよ。アホかよ。
イイ老け方をしていきたいものだね。私からは以上です。
5/13
昔好きだったというか、感銘を受けたバンドの映像をYouTubeで見たりすると、自分が当時とどう変わったかと言うのがよくわかる。
どんどんサウンド面を洗練させていくことを意識しているから、シンプルなアンサンブルを聞くと音を足したくなる。
昔好きだったバンドは、驚くくらい重なっている音が少ない。
自分は考えすぎていて、所謂こじらせという状況に陥っているのかとすら思う。実際こじらせているのかもしれない。
何かすごく俗っぽい言い方だな。
何年か前に「お前は一度良い音楽の追求とかいう迷いの森から出ろ」と言われたことがある。
音楽に良し悪しなんてなくて、好みでしかないよねって言われたこともある。
言ってることはわかる。けどそれは違う。
甲本ヒロトは言いました。
一番おいしい食べ物が一番売れてるものだとしたら、この世の中で一番おいしい食べ物はカップラーメンになってしまうと。
優れているかと、売れているかは必ずしも相関しない。
小説やマンガだって多分そうで、考えに考えて洗練させた重い文章が売れるとは限らない。
だけど言葉を尽くしたということに感銘を受ける人は絶対にいる。
そういう文化を愛でる心を僕は純粋に素晴らしいと思います。
音楽にだってそういう感覚があると信じています。
話は戻って、昔好きだった音楽が今はずいぶんシンプルに聞こえるという話だが、それは何で出てきたかというと、僕もずいぶん変わったんだなぁという風に言いたかったわけです。
佐藤秀峰先生が言ってました。
物語って言うのは、変化を綴るものなのだと。
確かにそうで、小説だろうが映画だろうが、何かの物語というのは必ず変化を描いているんだと思うんですよ。
そんでね、我々人類はみんな少しずつ変化していくものだと思うんですよ。
そしたら誰だってきっと物語になれるはずで、誰だって誰かのための楽しみになれるのではないか?
願わくば自分の変化が誰かにとって面白いものであればと思うし、誰かの変化を自分が楽しめればと思う。
だから僕の好きな人達には変化を恐れずにいて欲しいと思う。
僕はあなた方全ての変化を物語として楽しみたいんです。
それが所謂人生というやつで、本質的なエンターテイメントなんだと思っています。
変わることを恐れる必要なんて無い。
そう思いながら自分の信仰するものが根底から覆される危険性を感じるとどうしても物怖じしてしまうんだよなぁ。
全く人間って面白い生き物だネ!