9/8
夏の終わりに感じる喜びと幸福の絶対性・相対性について。
先ほど新曲を作るのをサボっていることを頭の隅で感じつつ缶ビールを2本ほど飲み干してコンビニへ酒の買い足しへ向かう道すがら、夜風の涼しさについに夏が本格的な終焉を迎えようとしていることを感じた。
皮肉なことに、我々は夏が無ければ夏の終わりを喜ぶことが出来ない。
夏が存在しなかったら、まとわりつくような湿気や歩くだけで汗をかいてくるあの暑さに対する最悪な気分と、その不幸からの解放を感じることはないのだ。
カタルシスとは抑圧からの解放を意味する。
夏の終わりはある種それに近い喜びを醸し出す。
そう考えると地球はすごい。
四季の演出によって我々は暑さからの解放 a.k.a. 秋の訪れ、寒さからの解放 a.k.a. 春の訪れと、生きているだけで少なくとも二種のカタルシスを体験することが出来る。
大変にドラマチックな惑星だ。
さて、ここまで書いてきてわかる通り、今日のトピックももちろん大した意味はない。
人間の感じる幸福には絶妙なバランスで絶対性と相対性が共存している。
「贅沢」という言葉がある。
自分が贅沢だと感じるものに、このブログを読んでいる皆さんはどんなものを思い浮かべるだろうか?
恐らく、大半の人が「いつもよりちょっといいものを体験すること」を思い浮かべるのではないだろうか。
いつもの生活と比べて、相対的にいいものを消費しようとする時、きっと人は贅沢感を得る。
第三のビールやストロングゼロがYEBISUや赤ワインに変わる。
アメリカ産の牛肉が国産和牛に変わる。
或いは、旅行という行為に感じる非日常。
僕は旅行にあまり興味がない。
準備が面倒だし、どこに行っても食い物も酒も大体うまいし、景色の綺麗さの違いがわからない。
田舎はどこに行っても田舎だし、どこに行っても文化的なものは素晴らしいから。
世の中には実は面白い人がたくさんいて、そういう人が面白いものを作っているのはどこに行っても同じだから。
どうしても知らない土地で知らない場所を探すのは面倒になってしまう。
旅行が趣味の友人というのは、存外多い。
何が楽しいのかはもちろん聞いたことがあり、その質問に対する返答の多くは「非日常を感じられるから」という意味合いであることが多い。
つまり、「普段の自分の生活とは違う何か(欲を言えばいつもよりちょっと良いもの)を消費したい」と考え、そしてその願望を叶えることに喜びを得ている。
要するに、人の喜びの多くには、相対性=何かと比べて良い悪いという物差しが含まれている。
比べることで得られる優越感、劣等感はもはや人の性と言ってしまっても良いのだろう。
もちろんそれだけかと言えば実はそうではない。
国産和牛を食べてまずいと言っている人間を僕はあまり見たことがない。
経験値ゼロの人間が消費しても素晴らしいものというのは確実に存在する。
特に食に関して言えばそれは非常にわかりやすく、例えばラーメン、カレー、寿司なんかは代表的だろう。
ただそれが、毎日同じになってしまうと途端に我々はその価値を見失う。
どれだけうまかろうが毎日同じものを食べていて幸福を感じられる人間はそういない。
結局はバランス感覚なのだ。
反対に、どれだけ一番を取り続けようとも飽くなき探求をやめないような人も存在する。
人と比べることに意味はないと考え、自分の好きなものを追求することの喜びを知っている人たちだ。
僕はどちらかと言えば、そういう人のことを好きだなと思う。
そういう人は、努力の価値を知っているから、誰かのことを何かと比べてバカにしたりしない。意味がないから。
人と比べられることで価値を得ている事実はあっても、それが目的になっていない。
そういう存在にやはりなりたい。
世の中には人と違うことで価値が高まるものと低くなるもの、人と違わないことが価値であるもの、そうでないものが存在する。
文化とは大衆に定義されるものであり、それはいくら誰かが文句を言ったところで変わらない。
その事実を受け入れつつ、それでも反骨心を持って自分を貫く人って、グッとくるよね。
そんな人間に自分もなりたいよね。夏は終わってくれて本当に嬉しいよね。
本日のおべんちゃらは以上だよね。
8/23
「ここは日本なんだから、今の日本のルールに従うべき」と言う意見について。
新曲作りをサボってツイッターをのほほんと眺めているとこんなニュースが流れてくる。
子供と配偶者の名前をタトゥーとして体に入れたりゅうちぇる氏。
簡単に言えば、その行動に一部が「引いたわ〜」と言っていると。
まずテレビがうちにはないので、りゅうちぇる氏のこともその家族のことも基本的に僕は知らない。
タトゥーを入れることの是非を語るつもりも全然ない。
子供の名前がいわゆるキラキラネームであろうがどんな発言をしようが、何も誰かを傷付けたり違法行為をしているわけでもない。
現段階で彼が行なっている一挙手一投足は誰に文句を言われる筋合いもないし、いい意味でも悪い意味でもさほど関心もない。
強いて言うならば、やや前時代的な議論だなとは感じる。
タトゥーは刺青とは意味合いが異なる。
前者はやや思想主張型のファッションであり、後者は反社会勢力の象徴である。
同一視するべきではない。
将来僕もタトゥーを入れる時が来るかもしれない。ちょっと興味もある。
で、大事なのはそのタトゥーの話ではなくて、寄せられたコメントの中にどうしても看過出来ない、と言うかこの手のコメントが一番イラっと来ると思うものがあったこと。
新しい価値観や文化を取り入れていこうとする人に対するよくあるコメント。
「ここは日本だから」
「今のルールに従って」
これがもっと攻撃的な言い方になると、
「嫌なら日本から出て行け」
になったりする。
まあね、わかる部分もあるよ。
ルール設定、特に法律なんかはね、内容考えてる人はめちゃくちゃ優秀で賢いですよ。
SNSではもう当たり前になってしまった一般人の鍔迫り合い a.k.a. オーラルプロレスを見てご覧なさい。
この世の中は、ちょっと油断をすれば「何が事の発端かもわからず」「やられたらやり返す」を繰り返す、いわゆる同害復讐の原則がまかり通ってしまうんですよ。
どんな人間だって、自分の痛みには敏感で、他人の痛みには鈍感になりがちなんですよ。
自分がやられたことを平気で他人にしてしまうんですよ。だって自分は痛かったからね。
痛い思いをさせた人や出来事、世の中を一般化して、誰か別の対象にすら石を投げてしまうものなんですよ。
見る度くだらねえって思うようなやり取り、現実でもSNSでも溢れかえってるでしょう。
じゃあ何で辛うじて我々が人としての尊厳を保って生きているかって言うとね、法律があって、それを守ってるからですよ。
かつては法律ですら同害復讐の原則で定められていたことがあった。
だけど、人類は長い歴史からそれが無益であることを学び、大まかなルールではそう言うのはやめましょうね、と。
憎しみ合いは無意味なので愛と無関心のみで我々は幸せになって生きましょうね、と。
偉い人たちがそこに気付いてルール設定が行われたわけです。
じゃなければ世の中は未だに殺し合い憎しみ合いの連鎖だと思いますよ。
戦争は無くなってないけど、まだマシどころかとっても平和ですよ。
で、僕はそのルール設定は非常に尊いと思うし、その制定及び保守運営を続ける人たちはとても賢いと思うんです。
そりゃこんだけ整ったシステムがあって不平不満があるなら、嫌なら出て行きなさいよって思う人がいても、まあわかるはわかりますよ。
実は国家権力は原則として非常に優秀であると言うことは肯定していきたい。
だけどね、ルールってマイナーチェンジしていくべきものなんですよ。
状況は刻一刻と変わっていくわけで、特に現代なんて、10年前に無かったものを誰もが使っていたりする。
そう言う時に例えば30年前までしか効力無かったルール守ってたって意味ないですよ。
無意味なことは変えていくべきだし、大事なものは変えないべき。
いいものは取り入れて、ダメなものは排除していくべきだ。
で、何度も言うけど、タトゥーがいいものか悪いものかはどっちでもいい。
一応は許されてるんだから、誰だって好きにすればいい。
ただそれを「ここは日本なんだから日本のルールに従え」と言うのは、マジでよくない。
非常に思考停止的で、たくさんの可能性を奪う言い方ですよ。
それがどれだけの文化発展の機会を奪うのか、お願いだから想像してみてほしい。
よく考えればわかるように、「ここは日本だから」がまかり通るなら、その思想を押し通すなら、
そもそもテレビは日本にはない。
NetflixもAmazonもGoogleもFacebookもSNSもない。
カレーもパスタもチョコレートもラーメンもチーズタッカルビもないんだよ。
外来文化を排除するのなら、それは鎖国時代と一緒だ。
そういう批判は、存在自体が無自覚なダブルスタンダードだ。
Instagramにそんなコメントが付くなんて、それ自体が痛烈なブラックジョークだ。
頭が痛くなる。
何度も何度も言うけど、想像力の欠如は地獄を作るよ。
まあ逆に思い切り大きな成果を叩き出す時があるのも知ってますが。。
全く難儀な世の中ですね。
あ、僕はそこそこ頑張って曲作ったりご飯食べたりしてます。
別に大してみんな読んでないと思うし大して気にしてないと思うけど一応。
他人事ではなく、肝に銘じて生きていきたいですなあ。
それでは本日のおべんちゃらは以上です。
7/17
気付けば一ヶ月ほどブログを書いてなかったわけですが、SNS等でご覧頂いている方々はご存知の通り、そこそこ忙しい日常を送っています。
現在参加しているfeat.ソニーミュージックオーディションについて、多少詳しく説明が出来たらなと思って今日はブログを書いています。
実務的なことを具体的にガンガンSNSで見せびらかすのも気が引けるので、このブログを読んでくれるくらいには僕に興味を持ってくれている、積極的に応援してくれている皆さんに、一体どんな仕組みで、何をしてくれるとありがたいかを書いておこうかと思います。
要するに音楽でバズを生み出せ、という話ではあるのですが、それって結局SUKISHAが曲作るしかないやんって話になっちゃいますよね。
まあそれはそれで作るし、今面白い企画をあーでもないこーでもないと捻り出している最中ではあります。
やはり懸念はランキングというものが存在していて、その順位が推移すると。
その点なのかなと思うんです。
正直僕はこのファイナリストのメンツを見て、「絶対勝てませんやん」と思ったんです。
どんな人が通ったのか想定した時に、「若くて可愛いガジェットを使いこなす女の子がいたら絶対勝てないな」と思いました。
いました。
オーディション開始当日、恋する幽霊のMVを公開しました。
いい曲だし、いろんな人が再生してくれて、当日だけで5〜800回は再生されました。
「俺もでっかくなったものだ・・・」と遠い目をしたものです。
あさぎーにょさんというユーチューバーの女性も同日、米津玄師氏の曲のカバーMVを上げておられました。
当日だけで4万回再生されてました。チャンネル登録者数、23万人。
負けるに決まっとろうが!!!
と思ったのに、なぜかランキングではその二人を越して僕が暫定の2位に位置しています。
これ何でやねんって思ったんですけど、結局音楽についての言及が多かったから、と考えるのが自然なようなんです。
SUKISHAの作ったこの曲がかっこいい、このアレンジがかっこいい。
そういうことを積極的にコメントをつけてくれたり、ツイッターでつぶやいてくれたりすると、それを大いなる意志みたいな概念的な何かが吸い上げて元気玉にしてくれるみたいなんですね。
所謂機械的全方位的イイネはありがたいはありがたいんですが、それは多分他のファイナリストの方がはるかにやられていて、かつスコアに加算されていないのではないか。
だから、応援してくれている皆さんにお願いしたいことは、至ってシンプル、たった一つなんです。
ただ、僕の作る音楽に期待してください。
で、その期待を越えてきたら、「この曲かっけえ」って言ってください。
イイネよりも、ちゃんと「かっけえ」って言って欲しいです。
もちろんイイネもRTも嬉しいですが。
そうすることがどうやら勝ちに繋がるようなのです。
これ、よく考えなくても、僕と皆さんのために超よくないですか。
だって僕は新曲作りたいし、多分今これ読んでる皆さんは新曲聴きたいですよね。
で、新曲聴いてかっけえって思ったらそれをいうと僕が強くなる。
いつも通りのことで、いつも以上に幸せになれる。
これもしかして何かすごい面白いんじゃないか?
そんな気がしてきました。
最近は周囲や環境の変化についていけなくて結構情緒不安定になってました。
というか今もです。
泥酔するといつも友達に「自分がわからない」と話して泣いています。
けど、やりきるしかないんですよね。やると決めたら、やる。
やりたくないことはやらない。
そう決めて今まで進んできて、それで少しずつ前進してきたから応援し続けてくれた友人がいて、応援も増えている。
僕に出来るのは本当に曲を作ることだけで、たったそれだけの、だけど自分にとっては大事なその行為で、このオーディションをやりきるところまでやってやろうじゃないかと。
そう思っています。
だから、皆さん、オーディション期間中は、無理は本当にしなくていいから、ちょっと気が向いた時には積極的に僕のことを誉めてやってください。
もしかしたら面白いことが起きるかもしれませんよ。
長丁場だけど頑張るぞ!応援よろしくお願いします!
本日のおべんちゃらは以上。
6/20
軽度ADHDと思しき自称ミュージシャン無職男性31歳の日常。
3つ以上やることがあると必ず1つは忘れる。
①自転車で向かい②コンビニ決済し③百均で梱包用品を買う場合。
自転車を置いて歩いて帰ってきてしまい、戻る。
①猫のエサと②お酒を買いに出て③ついでに近くの店で食料調達する場合。
エサを買い忘れて猫のトイレ用品を代わりに買っていた。
①猫のエサを買い②ついでに昼飯を食べ③トイレに行く場合。
お昼を食べた店に猫のエサを忘れてくる。
コンビニにゴミ袋を買いに出たら、帰ってくると酒とつまみに代わっていたこともある。
いつも何かぼーっと考え事をしながら物事に取り組むためだと思われるが、考え事をやめることが出来ません。
薬もらうとマジでシャキッてするって友達が言ってた。
でも別に俺今そんなに困ってないし、まあしょうがないかなって思ってる。
同じ症状で困ってる(仕事とかしてて他人に迷惑かけちゃう)人が減ればいいなとか、そういう人のミスに寛容な人が増えればいいなって思います。
アルバムのリリースから1週間が経った。
店舗で売れてるかはわからないけど、ライブやDJをすると知らない人が買ってくれます。
CDって大きな流れの中ではもう売れないものだけど、小さな現場レベルの視点だとまだまだ売れるんだよなあ。
示唆に富んだ現象ですね。
本日のおべんちゃらは以上です。
6/13
本日発売のアルバム「Segment of Cakes」に寄せて。
約1年半前には既に出来上がっていたこの作品、ここまで来るのには本当に長い道のりがありました。
出来上がった当初はまさかこんなに色んな人にいいと言ってもらえるとは思っていませんでした。
アーティストを拗らせに拗らせていた自分が、一度頭を柔らかくしてみようと試しに作った側面のある今作品。
少し肩の力を抜くくらいが人には伝わりやすいという学びをくれました。
音楽を好きになればなるほど、自分よりも好きではない人に届くものを作らなければ生きていけない。
だから、「好きなことを仕事にすると辛くなる」という人もいるんだと思います。
ただ、それには少し語弊があるというか、いくつもの解釈が存在しています。
アーティスト的な狭く深い、自らの好きを追求することを目指す人が、好きなことだけで生きていくのにはやはり大きなハードルと運の要素が介在します。
一方で、広く浅い、相手へと届けることを第一義としたデザイナー的なアプローチをする人が、果たしてその対象を好きだと自信を持って言えるのか。そしていいものを作ることが出来るのか。
それにもまた議論があります。
実際には二項対立的な構造ではなくグラデーションになっているものですが、僕は結局、広くて深い人間が一番強いのだと思います。
以前、ブログにも書いたことがありますが、
「音楽が好き」と、「好きな音楽がある」には大きな隔たりがあります。
自信を持って前者だと言える人ほど、こだわりが強くなってしまい、結果世の中ではマジョリティに当たるであろう後者にそれが伝わらない、という現象が往々にして起こります。
しかし、だからといって後者の人間が作ったものが、誰かに伝わるかというと、実はそれも伝わらないことが多いのです。
人のアンテナというのは不思議なもので、「細かいこだわりまではわからないけど、この人は何かが違うぞ」というのを見抜く人は存外たくさんいるものです。
だから、全方位的な「好き」を自分の中にちゃんと確保して、人々の耳にそれを気付かせる必要がある。
残念ながらそれは伝わらないことの方が多いのですが、繰り返していけばきっとどこかで気付いてもらえるのだと思います。
「成功しないのは才能がないから」と言う人がいるのはそう言うことなのでしょう。
「Segment fo Cakes」以前の僕は、細かいこだわりと自己主張を洗練させることに必死でした。
自分とは何なのか、自分らしさを主張するために何をすべきなのか。
今も考えていることは一緒ですが、少し視野が狭まっていたのだと思います。
まさに若さゆえの何某、というやつです。
結果、自分にとっては忘れることの出来ない大事な音楽を作ることは出来ましたが、多くの人にとってそれは魅力的には写らないようでした。
随分と悩んだものですが、今ではそれも無駄ではなかったと思えます。
twitterでは告知をしましたが、旧作のCDが自宅から偶然見付かったため、現在ネットショップで販売をしています。
それが、驚くほどに売れています。
そして多くの方に「昔の曲も良いね」と言って頂けている。
あの頃よりもはるかにたくさんの人が、自分の作る音楽を聴いて、何かを考えてくれている。
今の自分が作ったものが、昔の自分へ誰かを繋げてくれている。
とてもありがたいことだと思います。
比較的、性格には難があると言われる方なのですが、昔はただしゃべっているだけなのに「気に入らない」という理由で殴られたことも何度かありました。
親戚に殴られて「お前は性根が腐ってる」と言われたこともあります。
家族には今まで一度も音楽をやりたいという気持ちを応援されたことはありませんでした。
その家族が、今は「私は恋する幽霊が一番好きだから、ああいう曲をもっと作って」と言ってくれます。
兄の奥さんがサイン入りCDが欲しいからと購入してくれたりします。
今になってみれば、ただ心配なだけだったんだなと言うのがよくわかります。
そしてそれは進行形で続いていることでしょう。
自分が一番詳しい数値化出来ないスキルに関して、自分より詳しくない人にどう優れているか説明するのはとても難しいことです。
今まで一回も成功したことがない。
結局一旦はだけど、納得させることが出来たのは数字だったのかなと思います。
YouTubeで1万回再生されてコメントもたくさんもらって、ツイッターで拡散されて、クラウドファンディングで72万¥集めて、CDが全国流通することになった。
良くも悪くも、これは全部一人では出来ないことだったなと思います。
広大なインターネットの海の中で、自分を見付けてくれて評価・支援してくれた皆さんのおかげです。
全てに納得しているわけではないし、もっとこれからやらなければならないことはたくさんあると思います。
課題やタスクを感じつつもサボり続けている自分にいい加減危機感と嫌悪を募らせてもいます。
ですが、ひとまず皆さんにお礼を言わせてください。
ようやっと、自分の作品をちゃんと世に出すことが出来ました。
ありがとうございます。
今日この日くらいは自分のことを褒めてやりたい。
CD、買うか否かは本当に個々にお任せします(買ってくれると支援にはなるけどネ)。
僕の家には再生機器がありませんし、そう言う人も多いと思うから。
みんな好きなように、好きな音楽を聴けばいい。
そしていつか僕の作った音楽に辿り着いてくれたら嬉しいです。
最後に、伊坂幸太郎氏が好きなんですが、魔王という小説から好きな言葉を引用して今日はおしまいにします。
でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば世界は変わる。
僕もそう強く信じています。
本日のおべんちゃらは以上。
5/21
人類最大の敵は果たして何か。
古谷実先生の初期作品が好きで、特に「僕といっしょ」「グリーンヒル」「ヒミズ」辺りはやはり何度読んでも面白いなと思う。
特にグリーンヒルが大好きで、その作中で主人公が「人類最大の敵"めんどくさい"とどう戦っていくか考えなきゃなあ」というようなことを言う。
もっと若かった、仕事とは、働くとは何か、社会とは何かと言うことが当たり前にわかっていなかった、普通の学生だった頃の自分は、古谷実作品に少なくない影響を受けていた。
だから、僕も人類最大の敵は「めんどくさい」なのだと思っていた。
しかし最近、それはちょっと違うのではないかと思い始めた。
実は「めんどくさい」と言うやつは、恐らく毎日仕事をしている皆さんならばわかってもらえると思うのだが、責任感や報酬を与えることで克服出来る。
一人ではめんどくさくてやらないことは、他者に頼りにされたり、他者から圧力をかけられることによって案外出来てしまうものだ。
大量のサラリーマンの皆さんが毎日満員電車に揺られて通勤することがある意味では証左と言っても良いだろう。
やりたくなくても、好きなことではなくても、大体の人は責任と報酬を与えられればこなせてしまう。
では一体人類最大の敵は何なのか。
僕は最近、これは「うっかり」なのではないかと考えている。
うっかりから生じるミスは絶対に無くならない。
大事なことをうっかり伝え忘れるだけで、誰かの頑張りが完全に無駄になったり、誰かが本気で怒ったりする。
めんどくさいは回避出来るが、うっかりは回避出来ない。
しかも恐ろしいことに、うっかりは人を殺しさえする。
交通事故の多くはうっかりが原因だろうし、衝動的な殺人だって言ってしまえばうっかりに近いものがある。
我々は、うっかりしてしまうことが原因で奪ったり奪われたりしているのではないか。
そう考えたのも先日役所に行く用事があり、時間と曜日を確認し、片道一時間使って向かったのに閉まっていた、と言うことがあった。
ここ最近で一番腹が立ったし、どうしようもない気持ちになった。
しかも伝えた本人に悪気はない。怒ろうにも怒れない。役所にクレームつけようなどとも微塵も思わない。
徒労、と言う言葉が脳内を埋め尽くし、どこにぶつけて良いかもわからない暴力的な衝動が胸の内からとめどなく溢れてくる。
そんな状況、ここ最近本当になっていなかった。
僕は時間に余裕がある方だから良い、だがこれが別の人だったら一体どうなっていたか。
そう考えると、うっかりの恐ろしさは計り知れない。
この場合は確実に「めんどくさい」より「うっかり」の方が人を不幸にしている。
「誰もが最善を尽くしているはずなのに誰も幸せになれない」と言う状況は生じてしまうものなのだ。
このことに思い至って、こと国内においては「めんどくさい」よりも「うっかり」の方がよほど凶悪なのではないか?と考えた。
日本人は良くも悪くも真面目な人が多く、「ちゃんとせねばならない」「まともに生きねばならない」と思っている人が多い。
その心持ちから考えても、「めんどくさい」に対する耐性は高いのではないか。
一方で、他者の「うっかり」を被ったり目の当たりにすると、ある種病的なまでにディスり始めると言う特性もあるように思う。
「自分はそんなミスはしないし、世の中もちゃんとしているのだからミスは責められるだけの理由がある」
そう思っている人が多いのではないだろうか。
人の失敗に不寛容なのは、「めんどくさい」に頑張って勝ちすぎているからなのではないだろうか。
心理学の用語には「他者信頼」と言う言葉があるそうだ。
これは誰でも善人として信じて生きていきましょうねと言う意味ではないらしく、「お互いが不完全であると言う前提に立つ」ことを意味するらしい。
この価値観に僕は非常に強く共感を覚える。
誰だってミスはする。ミスをした人間を吊るし上げることは、仮に自分がミスをした時にも吊るし上げて良いですよ、と言っているのと同義だ。
コードギアスでルルーシュくんが「撃って良いのは撃たれる覚悟があるやつだけだ」と言っている。ならば誰も撃とうとしなければ良い。そう言うことだろう。
だって本当は誰も撃たれたくなんかないでしょう?
「自分はミスなんかしないから大丈夫」って思ってる?
敷かれたレールの上でなるべく失敗しないように気をつけながら、失敗したやつをせせり笑って生きていくことが果たして幸せなのか?
やったことがないからわからないものと比べて、今の幸福度が高い低いと語ることは出来ない。なのに自分の幸せはこれだと信じたがるのは、失敗した時救済手段が存在しないからだろう。
皆で救済してやりゃ良いじゃん。自分だってとんでもないミスすることあるんだからさ。
誰だって不完全なんだからさ、そりゃ怒っちゃう時もあると思うけど、おおらかでいたいよね。
挑戦無くして成功も失敗も無い。失敗を責めるようでは成功も抑制してしまう。
「うっかり」に勝つのは寛容さではないかと思う。
聖書のこともキリストのことも大して知らないが、「罪の女」と言う一説で、罪を犯した女に対して人々が石を投げる場面でキリストがこんなことを言うそうだ。
あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。
全く言い得て妙だ。
地獄への道は想像力の欠如によって構成されている。
失敗に不寛容な社会、その先の道はもしかしたら地獄へ続いているんじゃないだろうか。
願わくば、全ての人が「めんどくさい」に意志の力で打ち勝ち、他者の「うっかり」を容認出来ますように。
久しぶりにグリーンヒルを読み直そうか。
むしろ古谷実先生の最近の著作を読まねばならないな。
本日のおべんちゃらは以上。
5/7
そば茶の淹れ方で学ぶ「人は論理より感情を優先しがち」問題。
身体中が筋肉痛で痛い。
腹筋ローラーの効力と言うよりも少し運動しただけで身体中が筋肉痛になる自らの筋力不足にため息混じりの驚きを感じている。
ここ最近そば茶を愛飲している。
きっかけは我が愛すべきホームタウン・南大沢にあるちょっといいスーパーにペットボトルで売っていたことだった。
僕はカフェインを摂取すると体調を崩すため、基本的にノンカフェイン飲料しか摂取しない。
エナジードリンクの味は好きで、カフェインの存在について真剣に考えていなかった頃はモンスターを飲んでは気持ち悪くなっていた。
飲む度何故こんなに気持ち悪くなるのだろうと思っていたところ、カフェインが原因だったらしい。
それに気付いて以来モンスターは飲んでいないし、気持ち悪くなるのは二日酔いの時だけだ。
そしてそのちょっといいスーパーでは、大体弁当を買って食べる。
500¥にしてはやけにボリューミーで、動物性タンパク質と炭水化物と脂肪を前面に出した、「学生はこれを求めてるんだろ?オラオラオラ」とでも言いたげなとても素敵な代物である。
スーパーと言うのは往々にして目当ての物以外も購入させるよう意図して導線を用意しているものだ。
当然弁当売り場の近くには飲料売り場がある。
そこで僕とそば茶は運命の出会いを果たした。そば茶 meets SUKISHA。
なんてロマンチック。
そんな素敵な出会いと共にそば茶の美味しさに気付き、ペットボトルで一本ずつ買うのはコスパが悪いと言うことで国産韃靼そば茶150gをアマゾンでポチったわけである。
家でそば茶を淹れるようになると、なかなか興味深いことに気付く。
一杯飲むだけならば湯飲みにそばを入れてお湯を差し、数分待つだけだ。
しかし、一日家にいる性質上飲み物は沢山作っておきたい。
故に鍋に湯を沸かし、そこにそばを入れて沢山そば茶を作ることになる。
そうしてみると、何やら違和感がある。
お茶を鍋で沸かすと言う行為に。何ならおたまで掬って味見すると言う行為に。
自分の中の「お茶は急須で入れて湯飲みで飲むもの」と言う先入観及び感情が、あまり美味しくないと訴えかけてくるのである。
待て、待つんだ。
どんな作り方をしたってそば茶はそば茶じゃないか。
成分と作り方が同じなんだからうまいに決まってる。
マグカップで飲もうが湯飲みで飲もうがおたまで飲もうが、そば茶はそば茶だ。
そう思いたいのに、おたまで飲むそば茶はやはり味気なく感じてしまうのである。
普段料理をする時の動作と同じだからか、「お茶を飲む」という行為とどうしても結び付かない。
戸惑いを感じつつも冷めるのを待ってマグカップで飲んだ。
さて、僕はこの体験は非常に示唆に富んでいると感じた。
僕は普段「どんなに嫌なやつだろうがいい音楽を作るのならば素直に賞賛も拡散もするし何なら力になりたい」という、音楽至上主義を信条としている。
逆に、承認欲求や感情を前面に出すタイプの人は正直苦手だ。
「あいつは気にくわないから音楽も聴かない」なんて言い出された日には、お前は音を聴いてんのか、人を見てんのかどっちだ?と問いたくなる。
良いものは嫌なやつが作ろうが素直に認めて広げていく。
逆に良くないものは良い人が作っていても協力は出来ない。
文化人たるもの、そうであるべきではないか。
しかし、音楽や自分に関して言えばこのスタンスは変わらないのだが、全ての人にこれを求めるのは無理があるのだと、今日そば茶に気付かされたわけである。
誰だってイメージに引きずられる。
論理的には正しかったとしても、感情がそちらを向いていなければ是と出来ない事柄と言うのは、やはりあるのだ。
さらに言えば、コンテンツの良さは人の感情によって増幅も減退もする。
そのメリットを受けている以上、デメリットに文句を言うことは出来ない。
まあ普通はよほど詳しくて好きなものでないとコンテンツだけで判断することなんて出来ないよね、と。
最高級のイタリアンをムカつくやつと食べるよりも、気のおけない友人とマックを食べた方がうまい。
そう言うことなのだろう。何だか腑に落ちてしまったわけだ。
そば茶はおたまで飲むより湯飲みで飲んだ方がうまい。
そば茶マニアではない僕は感情に引きずられてそう感じてしまう。
ちょっと不思議な気持ちになるので、今度お茶を淹れる機会があったら鍋で淹れてみておたまで飲んでみるといいよ。
不思議な気分になれます。
本日のおべんちゃらは以上。