5/6
ここ最近、食の楽しみを謳歌しすぎた感があり、多少太った。
ので、筋トレ及びダイエット活動を始めようと思う。
別に食を楽しむことも太ることも大した問題だとは思っていない。
いないのだが、先日ライブ会場で話した共演者のお客さんが、トレーナーやら整体師をやっているらしく自分の体型を見てどう思うか聞いてみた。
日がな一日している仕事の話を職務を終えてやってきている人に振ると言うのも心苦し具はあるものの、好奇心には勝てないのが人の性である。
曰く、
「筋力無さそう」
「骨格歪んでそう」
「腰痛いって言ってそう」
「下っ腹出てそう」
とのことである。
黙れ!その通りで何が悪い!!!
と思いつつ、最近とんでもない体勢で曲を作ったりしている自分を考えると、これはずっと続けていくとまずいのではないか?とどうしても危惧してしまうのも事実。
以前にも何度かダイエットはしたことがある。
満足するほどオシャレに金を使っていないまま太りたくないと思っていたからだ。
僕の生活において、オシャレは優先順位が低い。
最悪生きていくのに必要がないからだ。
ニート生活も随分長くなってきた(最近そろそろニート名乗るのやめればと色んな人に言われる)が、それ以前から服にはあまりお金をかけることはなかった。
かと言って、オシャレしたいかと言えばそれはしたい。いつかしたいとは思っている。
往々にして、何かを十分に楽しんでいないまま手に入らなくなると後悔するものだ。
それをわかっていたのでいつかオシャレする時のために痩せようと思い、当時は実際痩せた。
今は服の好みも随分変わったので、別に太ったところでオシャレなどいくらでも出来ると感じている。
重要なのは筋力不足が深刻なレベルまできていることだ。
そして筋トレの効能を僕は既に知っている。
世の中の楽しみは消費・共有・生産の三つに分けられると言う持論に関しては以前書いたことがあると記憶している。
筋トレはこの三つの中で言えば明らかに生産で、その特徴として「面倒な上にしばらく我慢して続けないと効果が出ない」ことが挙げられる。
だがしかし、続けてさえいれば必ず結果が付いてくる上に、それがこの上ない快感であるのも特徴だ。
筋トレは恐らく、生産的な活動の中でも最も敷居が低い。
他のアクティビティを考えると、どうしても才能やセンスが必要になる場合が多い。
例えば音楽。音感が無ければその分だけ苦労は多くなる。敷居は低くはないだろう。
絵画や映像、文化的なアクティビティになればなるだけセンスを問われることになる。
その点筋トレはシンプルだ。
スポーツや球技などのように多角的な動きは必要ない。頭を使う必要もない。
グラウンドや体育館を借りる必要も、スポーツ用品を買い揃える必要もない。
その上ちゃんと継続して続ければ必ず結果が付いてくる。
頑張りが可視化されると言うのは非常に重要なことだ。
僕は自分を脳内麻薬の中毒者だと思っている。
なぜ音楽を作っているかと言えば、完成した時の気分が最高だからだ。
明らかに脳から何かが出ている。
自分で作った曲を何度も聴いてアヘつくのなど日常茶飯事である。
筋トレマニアが鏡の前でポージングすることと何も差はない。
普段の腰痛やヤバい体勢が改善され、しかも脳内麻薬を味わえると言うのであれば、やらない理由などないではないか。
何年かに一度来る筋トレの季節がまたやってきたようだ。
いつもはダイエットする時は有酸素運動を取り入れるのだが、今回は純粋な好奇心から糖質制限をしてみることに決めた。
もうすぐ一週間が経過するが、炭水化物のありがたさには頭が下がる思いである。
肉を毎日食べると言うのは、なかなかに攻撃的で暴力的な活動だと感じている。
食べてみればうまいのだが胃腸的にもしんどいし何か疲れる。
白米やパン、麺類の優しさ、ありがたさを再確認せざるを得ない。
効果が出るまで続けてみようと思うのでとりあえず1ヶ月続けてみようと思うが、さてどうなることやら。
筋トレは友人に腹筋ローラーをもらったので今日から始めてみたが、腹筋よりも背筋と腕の筋肉が絶望的にないことに気付く。
二の腕あたりがプルップルである。
千里の道も一歩から。俺たちの戦いはまだ始まったばかりだぜ。
ところでCDの制作だが、最後の最後のツメがマジで迷路。
JASRACマークを盤面に入れるだとか、入れたら今度ジャケットにも入れる必要があるだとか、重箱の隅をつつくような作業に気が狂ってしまいそうである。
もういい加減、本当に、いい加減にCDをプレスさせてくれ。
色んな人に「まだですか」と言われるのだが、僕が一番思っていると言うことをこの場で主張させて欲しい。
そんな具合にGWが過ぎ去っていったが、僕の日常はいつも通りです。
梅雨が始まる前に一度実家に帰りたい。
本日のおべんちゃらは以上。
4/30
herthstoneというデジタルなカードゲームにウルトラハマっている。
とても面白い。ネットにつながればどこでも誰とでも出来るというのもとても良い。
言ってみればマジックザギャザリングや遊戯王などと同じようなものだと思うのだが、マジで勝てない。
一度の勝負が比較的短く出来て、負けると悔しいのに勝ってもさほど嬉しくない。
でもプレイ中はなぜかものすごい脳内麻薬が出てる感じがする。
パチンコってもしかしてこういう感じでハマっていくのではないか?
自分に合ったとても面白い遊びが生産的でない場合、それと良い距離感を保つのは非常に難しい。
自分の「楽しい」という気持ちが自分のみで完結してしまうとその先に道は開けない。
ただ最近は何でもシェアすることが容易で、僕のような本気で勝ちに行ってその世界で上を目指すつもりが皆無な人間も、YouTubeでプレイ動画などを見てハイレベルな戦いを楽しむことが出来る。
動画を上げて楽しませるという活動が当たり前になったことは本当にいいことだと思う。
最近ご飯を食べてる時などもっぱらherthstoneの対戦動画を見ている。
YouTubeのチャンネル登録やツイッターのアカウントなどもはちゃめちゃにフォローして情報を集めては戦略を研究するわけでもなくただ楽しく眺めている。
何かに近い気がして考えてみると、これはスポーツ観戦に近いのではないか?と思い立った。
例えばサッカーなんかは、本人がサッカーがうまいかどうかと関係なく、好きならば中継を見たり情報を集めたりするわけで、熱心なファンほど戦略・戦術についても研究している。
ゲームを楽しむという点においては全く同じなのではないか?
e-sportsという概念、言葉は非常に言い得て妙だと感じた。
大きな枠で捉えれば僕がいつも見ている動画もゲーム実況という括りになるのだと思う。
僕が気になるのは、そういう動画を上げているような国内でもトップだとか実力派であるガチプレイヤーの皆さんがどの程度収入や支援を得ているかだ。
まあ言っても仕方のないことだけど、国内でe-sportsやってます、プロです、或いはプロ目指してます、なんて言っても理解してもらえないことの方が恐らく多いだろう。
ただその文化も進んだ方が面白いと思うんだよな。
きっと僕が今更気付いたくらいだから、もっと早くに気付いて大きな声で提唱している人もいるんだろう。
そういう人のことをさらに大きな声で応援できるように、早くなりたいものだ。
だってさ、プレイ動画の中にトーナメント制の大会とかあったりするけど、解説なんか聞いてると、もうまんま将棋とかサッカーの実況ですよ。
違いがどこにあるか?プラットフォームと歴史と動く金だけ。
人の心が新しい文化に付いてこれなくてどうする。とどうしても思ってしまう。
ゲームの力はすごい。
最近何も無い週は飲酒は週3までと決めている。
今のところ割と守れているのだが、そうなってみて気付くのが、一人で酒飲んでるよりゲームやってる方が楽しいということ。
何でも使い方次第で人生を豊かに出来る。
「ゲームなんてやってたらバカになる」なんて言説があった時代もあるけど、いつの世もバカが使えば何でも凶器みたいなところがあるよな。
そんなこと言っておきながらほどほどに切り上げてちゃんと曲を作らないと、ほんとは僕のせいなのにゲームのせいにされちゃうから、気を付けないといけませんね。
本日のおべんちゃらは以上。
4/17
新曲作りがとってもしんどい。
いつも通りをずっと続けているだけでは面白くないし、新しく好きになった音楽の要素を取り入れていかねば自分の音楽生命に未来はない。
故に色々試行錯誤を重ねるわけだが、まあうまくいかないこと。
挑戦無くして成功もないが、毎度のことながらピンと来るものが出来るまでのうだうだの時間は相当めんどくさい。
時間かからず良いものが出来る時ももちろんある。
Rainbow Townなんかは良い例で、あの曲はトラック作るのに2日程度しかかかっていない。
創作のインスピレーションはどこから来るのか、全く不思議なものである。
話は変わって、漫画村について。
僕はずっとその存在に気付いてから、「これでついに漫画も課金制読み放題サービスが出来るんだな」と思っていた。
音楽も動画もゲームも、基本無料の課金制が導入されたのは先に違法使い放題のツールが台頭したあとだったから。
で、この辺に共感してた。
僕この話ものすごく下らないと思っていて、それというのも月1,000円出せばNetflixで映画、ドラマ、アニメ見放題、Spotifyで歌聴き放題な時代なのマンガ作ってる人も知ってるはずなのに全然舵を切らないところ。
— 松下哲也 (@pinetree1981) 2018年3月11日
私、今までの海賊版の歴史的経緯を踏まえると、漫画村のようなサイトがなし崩し的に合法サービス化するか、漫画産業が壊滅するかの二者択一だろうなあと思っています。
— 松下哲也 (@pinetree1981) 2018年3月11日
音楽業界でも映画業界でも、それぞれ違法コンテンツと戦いながら業界構造を転換していって、その経過で潰れたところと新しく勃興したところがあってというのをやってきたのに、それを眺めてた出版業界が今になって現存する会社を守るために通信の秘密を侵すとか、どういう神経でそんな主張ができるんだ
— tagomoris (@tagomoris) 2018年4月13日
政府、マンガ等の海賊版サイト接続遮断を要請 TBS NEWS https://t.co/JFlh2aYG6g 違法サイトより利便性が高くて納得できる価格の公式サービスができない限り解決しないと思う
— 安倍吉俊 (@abfly) 2018年4月13日
そんで、この辺が全然拡散もイイネもされてなくて、結構え?マジで?ってなってた。
で、自分が考えてたこととか全部すごいうまくまとまってる記事を佐々木俊尚さんがシェアしてて、めちゃ共感した。
重要な視点の記事。海賊サイトを超えるUXを持つ正規サイトこそが解であるという指摘は、まさに2003年にiTunes Music Storeがやったこと。/滅びゆくのはマンガ文化か、出版社か、それとも表現の自由か https://t.co/RmWtWnb6Nw
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) 2018年4月14日
で、ものすげー残念で、ちょっと本当にがっかりしてるのが、この流れ。
これ、もし忖度案件だったら法治国家名乗るのやめた方がいい。
やってることが中国と一緒。
既得権益にしがみつく様って見る度本当にげんなりするんだけど、久しぶりにこんな嫌なの見た気がした。
あとこの辺とか。
違法云々に関しては、実は漫画家からはもうほぼ10年前に問題提起がされてて、
音楽もゲームも動画も、全部既に新しい時代に適応しようとしている。
出版だけ業界が今問題提起しても、何を今さら・・・と思わざるを得ないのはどうしようもない。
で、漫画村に慣れちゃった人は多分もうこれまで通りの元のやり方では漫画読まなくなるのではないか。
それだったら他の遊び探すわ、ってなりそう。
利便性の追求は一般人にとっては限りなく不可逆的で、例えば「スマホって別にいらなくないですか」って誰かに言うと、結構な脊髄反射で「いやいるでしょ」と言われることは多い。
ほんの10年前まで使ったこともなかったくせに、だ。
経験上、本当はスマホは無くても生きていけるし、ガスもネットも止まっても生きていけることはわかっている。
けど便利なものを手にすると、無くした時の不便が形のない不安になってのしかかってくる。
社会の発展は利便性の追求とセットになっていて、特に何も考えない人々にとってはそれは不可逆的なものなのである。
今スマホが手元で壊れたとして、ガラケーならすぐ手に入りますよ、となった時に果たして喜んでそれを使う気になるだろうか?
普通は新しいスマホを入手するよう努力するのではないだろうか。
消費者では無く供給する側として考えてみると、これからの時代をクリエイターがサヴァイヴしていくヒントは、ゲーム実況にあるのではないか。
もう普通にモノを作って、「どうだいいだろ」「どうだ面白いだろ」でお金をもらうのは、なかなか難しい。
漫画家も音楽家も、作る過程や構想を配信か何かで公開すれば見たがる人はいっぱいいるのではないか。
有り体に言えば、新しいファンクラブのあり方を考える時がきているのではないか。
他にも新しいやり方を模索すればまだまだやれること、楽しそうなことはいっぱいあるはずなのに、「こうでなければならない」と言う考えに支配されている人はやはり多いようだ。
そう言う人たちに何か新しいやり方を提示出来る人間でありたい。
あと、仮に全てのコンテンツが無料で消費出来るようになったとしても、クリエイターはいなくならないし良いコンテンツも作られていくはずだ。
本物のクリエイターは放っておいても作ってしまうものだから。
そして良いものに触れると人はお金を払いたくなるものだから。
NEETの僕がBLUE GIANTだけは全巻買っていることこそが何よりの証左ではないだろうか。
本日のおべんちゃらは以上。
4/13
母、襲来。
昼、チャイムの音で目が醒める。
宅急便は頼んでいない。
こんな平日の昼間にやって来るのは新聞か宗教の勧誘かだ。
昨日も遅かった。無視して寝ることにした。
チャイムが鳴り止まない。
どう考えてもおかしいレベルで鳴り止まない。
大家か隣人から何かの苦情だろうか?
(以前別の物件で大家が「大家!」と叫びながらドアを叩き続けると言う事案があった)
と思い、iPadを見てみると、母からの着信。
そう、今日は母が長野から来る約束があった。
定期的に東京に来ているらしく、今回は事前に行くから会いましょうと連絡をもらっていた。
10時に集合で、とも言われていた。繰り返すが、その時点で昼である。
母、憤慨。
これを読んでいる皆さんの想像のおよそ5〜10倍の小言を頂きました。
10:0で自分が悪い時、相手をなだめるのは本当に難しい。
ただ自分も本当に申し訳ないと思っていて、弁解の余地とか一個も無く本当に忘れていただけで、しかもたまにやってしまうタイプのやらかしが最悪のタイミングでやって来た。
管理能力の欠如に関しては、ちょっとそろそろ本気で改善に向けて取り組んでいかねばならない。
何より、時間を奪ったと言うことと心理的な圧迫をしてしまったと言うことが申し訳ない。
もののついでとはいえ息子に会うため朝から東京まで来て、一人で何度も電話して待って、連絡が取れないものだからわざわざ自宅まで突き止めてインターホンを鳴らしに来るまでの母の心境の変化を想像すると、ああああと声が出てしまう。
ひたすらに謝ってお昼をご馳走し許してもらったが、大事な用事なのに頭からぶっ飛んでしまうことは他の人と比べて結構ある方だと自覚している。
今日なんかGoogleカレンダーにも予定入ってたのに忘れていた。
どうにかしないとまずい。
僕は偶然ネットに上がっていたドキュメントを見て知ったのだが、かなりの生き地獄的な世界観がそこにはあった。
職能を得ることが出来ず、実績も収入も無いまま両親の収入をあてに引きこもり続ける40代、50代。
それを見てまるで他人事では無いなと肝を冷やしたのを覚えている。
母の周辺でも話題になっているらしく、自分もそうなるのではないか、そうなっても助けてやれないと心配された。
まあそりゃ心配するよな、と思う。
家族には積極的に自分がやっている音楽を聞かせたことはない。
照れ臭いし、一度も応援されたことはないし、家族の中で音楽マニアなのは自分だけだと思っているから。
音楽で喜びを共有出来ないのなら、他のことを一緒に楽しめばいい。
けどそれがどうやら31歳にもなって何をしてるかもわからない、先行き不安な不肖の息子像を作ってしまっているらしい。
まあ、大体は想像の通りなんだけど。
母からは「普通そのぐらいの年だったら」という言い方が頻出した。
自分が普通ではないというのは重々承知の上だが、「普通」という言葉はかなり定義が曖昧で想像力を奪う同調圧力的な言葉だと思っている。
非正規雇用者や低収入者が増える社会において、「普通」とは何か?は所属する環境によっても変わってくる。
もし社会全体の「普通」を定義しようとするならば、過半数を越える数の賛同がある価値観を「普通」とすべきだ。
それ、ゆくゆくは高齢者の常識が日本の常識になってしまわないか?
一方で世の中全体では一部の金持ちと残りの貧乏人という形が出来ているとして、じゃあ貧乏人の価値観が「普通」ということになるのか?
安心を「普通」という言葉で買うような使い方はなるべく避けたいものだと思った。
が、自分の生き方が普通でないことは誰の目にも明らかなので、そのメリットを享受する以上、デメリットも甘んじて受け入れなければならない。
何よりも、我が母が31歳ニートの息子を心配するのは地球が自転するのと同じくらい当たり前のことである。
ただ一つ強く思うのは、世の中に影響を与えたり人を感動させる何かを作るような人が「普通」であったことなど一度もないだろうということ。
今日のブログだって、1,2年後には熱心なファンにディグされて「あのSUKISHAもこんなこと言ってる時代があったんだなあ」なんて言われるようになると僕は信じて疑っていない。
何も動じることなんてない。平常運転です。
早く両親を安心させて世界旅行に連れてってやりたい。ので今日も新曲を作る。
新曲作りがマジで難航中でしんどい。
本日のおべんちゃらは以上。
4/12
CDについて。
クラウドファンディングで資金を調達した拙作「Segment of Cakes」ですが、順調に全国流通へ向けて話が進んでいます。
まじで当たり前の話なんだけど、流通の会社の方とのやり取りも全部自分でしていると細かいタスクがたくさん発生して、とても大変な作業であることに気付く。
気分としては、終わりの見えない掃除をしている感じに近い。
自分としては綺麗にしたつもりが「いやまだ全然やることあるでしょ」と言われてしまいがちなあの感じである。
「このぐらいでいいでしょ、もう十分揃ってるでしょ」と思ってデザインや必要な情報を揃えると、実はまだまだやることがあるとわかる。
キッチンの油汚れを掃除したら換気扇がどうだとか、水回りがどうだとかが気になり始めるわけだ。
やめてくれ、片付けは苦手なんだ、やめてくれ・・・。
クラウドファンディングが終わってからもう随分と日が経っていて、自分としては一刻も早くCDをプレスして参加してくれた皆さんに届けたいと思っているんですが、物事が進むのには思った以上に時間がかかってしまうようです。
会社設立できるかな?と言う、ネット上で必要なフォームに記入してちょっとお金を払うだけで株式会社が設立出来るサイトがある。
CDの流通ももう少しどうにかならないものなのだろうか。
なるわけないわな・・・。
作るだけなら誰でも出来るが、ちゃんと売るとなると話は随分違ってくる。
人対人でプロダクトを売る、しかも著作権が絡むとなると、どうしても関わる人は増えてきてしまうんだろう。
元来の性格で、意志決定のスピートが遅いのが苦手だ。
バンドをやろうとしたこともあるが自分主導のものが一度もうまくいったことが無いのもそれが一つの要因であるように思う。
人が増えるとそれだけで、全体の意志決定の前段階に「伝える」と言うプロセスが発生する。
これが特に音のこととなると難しい。当たり前だが音は言葉ではないからだ。
自分以外の人が関わるということは、ただそれだけでやらなければならないことが増える。
だがその分出来ることも増えていく。
当たり前を当たり前に実感しつつ犀の角のようにただ独り歩むのである。
遅くても6月にはみなさんのお手元に届く予定です。お待ちください。
余談。
我がホームタウン南大沢に不満はほぼ無い。
ただ近所に定食屋とタイ料理屋が無いのと、都心から若干遠いことだけが問題である。
急にカオマンガイやグリーンカレーが食べたくなった時、都心にちょっとした用事がある時などはそこそこガクッときたり辟易したりする。
今年の目標は引っ越すことだが果たして。
本日のおべんちゃらは以上。
4/9
先週末は珍しくキャラに似つかわしくない遊び方をした。
土曜の夜に表参道へ向かい、屋台村的なチルプレイスで飲酒、その後カフェとは名ばかりのグッドチルプレイスへ足を運びグッドなビートとナイスなピーポーとコミュニケイションし、気付けばその足で渋谷のクラブへ。
深夜のクラブなどほぼ初めてである。
しかも知り合いがその日初めて会った人しかいない。
たまに発揮される謎の行動力。要するに寂しがりなのだ。
なんだかんだ朝までうろちょろし、テクノのストイックさに畏敬と戸惑いが入り混じった思いを抱く。
日曜も遊びの約束があったためそのまま渋谷の漫画喫茶で仮眠を取ろうとすると、始発が出ている時間帯にも関わらず漫画喫茶は満員で1時間待ち。
待合場所があるわけでもなく、通路に簡素な椅子が置いてある。
外で待っているのではカウントされないので、呼ばれるまでそこで待っていてくれとのこと。
見れば二人ほど、通路で横になって寝ている。雑魚寝である。
漫画喫茶の通路の床で、人が横になって寝ている。
あまりに見慣れない光景なので苦笑交じりにあれは大丈夫なのか、と問うて見たところ、「通路の邪魔にならなければ仕方ない」との返答が。
東京都内歓楽街の人口飽和とそれに伴い露呈している不快や限界突破、思考停止感の一端を目の当たりにした気がした。
無理めでも実害が実益を越えないと言うのは不思議だなと思った。
次の日は花見と言う遅すぎる名目の下、BBQに参加する。
二日酔いで大して酒は飲めず。
何やら良い雰囲気のお友達の皆さんとアヘアヘ言う。
その後普段は滅多に行くことのない、カラオケなるものへ行く。
何年ぶりになるかわからないくらい久々にカラオケに行ったが、歌と言うのはやはり疲れるものなのだと再認識させられた。
いつもライブを終えるとものすごく疲れるのだが、その疲れと同種のものをカラオケで歌った後に感じた。
アレは普段の運動不足とか体力がないからと言うのもあるが歌うことによって何か生命力のようなものがどこかから発散されているのが原因だなと思った。
しかし楽器のことやピッチのこと、モニターの状況など何も気にせずただ熱唱するというのは存外楽しかった。新しい発見である。
帰り道の電車の中、飲み会帰りの大学生か何かの団体が隣で会話をしていたのが耳に入った。
どう頑張って無視しようとしても聞こえてきてしまうその会話が非常に示唆に富んでいた。
うち一人の婦女子は電話で泣きながら話していた。
元彼と電話しているだとかで、彼女は復縁したいがそれは叶わない願いらしい。
隣で友達の婦女子が彼女を励ましていた。そこまでは普通だった。理解出来る。
恋愛は論理が感情を上回ることのない、いわゆる人間らしさが非常に強く際立つ側面を持つ。
メリットデメリットではないものだ。
彼の感情が彼女の方を向いていないのならば、それは言葉による説得で何をどうこう出来るものではない。
違和感があったのは、向かい側に立った男の態度だった。
彼はその彼女及びその元カップルが重ねた歳月や行為、それに伴う感情の機微を想像している素振り無しに、まるでバラエティ番組で少しきつめのドッキリをお見舞いして悪気無しに謝るかのような態度で適当な励ましを繰り返した。
「ドンマイドンマイ」
「男なんて他に山ほどいるよ」
「いいから荒野行動(スマホのゲーム)やろうぜ」
言葉で説明するのは非常に難しいが、隣で全力で小説に集中しようとする自分の心を乱すほどの不愉快さが彼の態度にはあった。
普段あまり何かにネガティブな感情を感じることは無い。
それ自体が興味を持っている、つまり関わろうとしているという意味であり、自身にとって損な行為だと考えるので意図して興味を持たないようにしているからである。
今になってはもう二度と会うことの無いであろうその彼らの会話とその後にさほど興味はないが、その彼の態度となぜ自分が不愉快に思ったか、には興味がある。
失恋は辛い。
言葉が心を越えない時というのが確実にあって、そういう時は何をするも適わない。
その虚しさは筆舌に尽くしがたいものがある。
あの時こうしていれば良かった、でなければどうすれば良かったのか。
考えても絶対に解決しない問題を思考だけが堂々巡りをする。
誰だってそういう時があるのではないか。
彼は本気で誰かこの人でなければならないと思う人物に心奪われたことが無いのだろうか?
これほど悲しそうに泣いている婦女子に対して、なぜそこまで軽薄な態度を取ることが出来るのだろうか?
人が涙を流すほどの状況を目の当たりにして、何とも思わないのだろうか?
SNSが普及して以降、恥の可視化が促進されたように思う。
非常におっさんくさく頭の悪い妄想だが、失敗に不寛容で挑戦を恐れる国民性はそれによって助長され、ごくごく一般的な若い世代はさらにリスクを取らなくなっているのではないか。
その空気感が、彼から真剣さやうまくいかず悩む人を励ます心を育てる機会を奪い、失恋して泣く婦女子に対するへらへらした態度を作ったのではないか?
というところまで考えたのだが、自分も若い頃はそのぐらい適当だったのではないかと思い止まり、考え過ぎていることを戒めた。
きっと自分にだって、こいつ何で泣いてるんだろう、それより今遊びたいんだけど、などと思ってしまう時はある。
何より彼らは飲み会帰りで、楽しんでいる最中だったのだ。
それに結局は人それぞれであり、彼が本気で恋愛をしたところで自分と同じくらい泣いている婦女子を不憫に思うとは限らない。
人の気持ちを想像するという行為はスキルであり、出来る人と出来ない人がいる。
どちらが偉いということではなく、出来る人には優しい人が多いし出来ない人の方が秀でている分野もある。
自分が彼を不快に思ったのは、自分がしてはいけないと思っていることを彼があまりに当たり前にしていたからに過ぎない。
そこに正しい間違っているは存在しない。
ただ僕は地獄への道は想像力の欠如で構成されている、と思っている。
いつも思うことだが、今回また現実味を増したように感じた。
家路につき一晩寝て目が覚めてみると言いようのない虚しさに襲われた。
そろそろ曲をちゃんと作らねばならない。
それぞれの人にそれぞれの営みがあり葛藤がある。
自分は自分の、営みと葛藤を繰り返さねばならない。
なぜだか知らないが、自分の思考回路はそういう風に出来ている。
本日のおべんちゃらは以上。
4/4
我が愛すべきホームタウン・南大沢の春は非常にチルである。
随分遅くなってきた日没と同時に昼寝から目を覚まし、多くの人が帰路につく途中のアウトレットモールを抜け、ちょっといいスーパーことサカガミで500¥にしてはやけにボリューミーな弁当を20%引きで買い、外のベンチで食す。
前方のベンチではまだ幼い娘二人とその親と思しき夫婦が座って何やら話をしている。
お父さんは恐らく仕事帰りなのであろう、スーツ姿でお母さんからシャツの汚れを指摘されている。
娘たちはまだ普段は仕事で大半が留守の父に甘えたい年頃なのだろう、仕事帰りのお父さんにおんぶや抱っこをねだっていた。
非常に愛おしい、家族の風景。
その後ろでブヒブヒ言いながら弁当を食べる髪の毛ボッサボサのチョビヒゲニート。
南大沢は今日も平和である。
純真無垢な存在と言うのは美しく見える。
最近、人間は多少無知であったり、抜けてる存在の方が可愛く見えるのではないかと感じる。
おバカタレントという存在が淘汰されない理由は、愛らしさとマウンティングを取りたがる人々の承認欲求を満たしている点にあるのだろう。
後者に関しては考えても虚しくなるだけなのでここでは愛らしさについてのみ触れたい。
例えばレペゼン愛玩動物である犬や猫なんかは、ちょっとどころかかなりアホである。
うちのシーザーくんなんかは、猫じゃらし振れば喜んで食い付き、飼い主が立ち上がれば餌だと思って自動給餌器まで即ダッシュである。
決して頭が悪い、と貶しているわけでもなんでもなく、これは彼らの体に見合った大きさの脳なりに一生懸命考えた結果であり、また動物の本能に則した純真無垢な反応なのである。
そして僕はそれを見て、「オイオイさっきメシ食ったろうがよ」と苦笑交じりに通じない会話を彼に挑むのである。
そしてしきりに愛らしいと感じるのである。
ちなみにこのブログにオチは無い。
ある程度の問題提起や主張から、オチの無いただの日記まで、個人的な見解はブログに書いていくことにしようかと思う。
新年度を迎えたと言うのもあるが、SNSで自分を見ている人たちのほとんどは自分の見解などさほど興味が無いと結論したからである。
ありがたいことでもあるのだが、多分みんな僕には純粋に音楽を作ることを求めている。であるならば、余計なことは言わずに欲しいものを提供しようと思う。
ただ生来の性格で自己顕示欲が強く、どうしても何か言いたくなる。
ならば見るか否かを選べるブログでやればいい。そう思った。
故に今後はブログで好きなことを自由に書き並べていこうと思う。
ある一定のスパンで定期的にこういう風に言っては書き始め、段々ペースが落ちて全く書かなくなる、というのを繰り返しているが、この際それは気にしないでおく。
最近最もグッと来たニュースはBEASTARSがマンガ大賞を受賞したことである。
僕のセンスは間違っていなかった。
マンガの感想をブログに書いていこうとした時期もあったが、二回で終わっていた。
今後はオチだとか、起承転結だとか何も考えずに書いていく。
最初からハードルを上げるのは途中でやめてしまうフラグなのだ。
千里の道も一歩から。
本日のおべんちゃらは以上。