ゲーム実況って今凄い需要があるということを改めて知りました
はてなブックマークの記事とかよく読みます。
今日も現代人らしくスマフォでとぅいったーをいじいじしていたらタイムLINEに面白そうな記事が出てきたからウホウホ読んでおりました。
その方のブログが前から面白いなと思ってはいたんですが、記事読み終えるとブログって何となく過去記事のリンクとか見ちゃうじゃないです?
そしたら面白そうな記事がまたあったから読んでみるじゃないです?
そしたらその過去記事の方が面白くて、へぇ〜って思っちゃったわけですわ。
ブログのネタって、正直何書いていいのかわからんのですわ。
いつも音楽の作業の進み具合とか、あぁ〜俺ってこんなやつ〜アヘアヘ〜とかばかり言っててもどうしようもないので、たまに面白いと思ったブログとかニュースとかそういうのの感想とか書いてこ、ウフフッ、とか思ってパソコンの電源をオン!
で、読んでたブログの記事がこちら。
結構長いですが、これが面白かったらその数日後に書かれておりますこちらの記事もどうぞ。
感想はなるべく明文化すべき。という自論を持っております。
考えを言語化することで誰かに説明する時にも伝えやすいし、漠然としたイメージだけでは何も産み出せない場合もあります。
本とか漫画読む時もなるべく面白いなと感じた時にメモを取る様にしています。
ということで所感を綴りたいと思います。
正直、ゲーム実況がそんな馬鹿でかい需要を持ってるということを知りませんでした。
海外のユーチューバーでトップクラスに稼いでるのがゲーム実況者だっていうのは知ってたので、ちゃんと知ろうとしてなかったと言われればその通りなんですが。
自分がそもそもゲーム実況というものに面白みを見出せていなかったので。
で、記事を読んでいて思ったのは、アンダーグラウンドから始まった枠組みが市民権を得てメジャーな存在になった時、関係のある別のコンテンツがそれに追随する形になると言うのは、他のジャンルでもよくある、というか商業ベースで考えればごくごく自然のことなんだよな、ということ。
ゲーム実況がこれだけポピュラーになったから、逆にゲーム会社もヒット商品を作るためには実況を意識せざるを得なくなってくるのでは、みたいな話からですが、これは音楽でも同じようなことは起こってるのではないかと。
例えばここ数年だととにかくアイドルが多いですよね。
あとは邦楽ロック界隈で高速四つ打ちが多様されたりと、そのジャンルの中で"アツい"と目される属性があって、どこから始まってるのかはわからないけど、そうした方がウケそうだ、と思ったらそれを狙っていくのは、やはりお金儲けとして正しい。
しっきー氏も正しい、と認めた上で、でもお前らはわかっていない、と言っている。
乱暴な言い方をしてしまえば、アングラ期からの古参が有名になったコンテンツに対して"変わってしまったな"と残念がっている様子なのかな、と。
大きな需要があって、かつ参加者が多いコンテンツって言うのは、やっぱりなるべくその需要を満たす形に変質せざるを得ないんでしょうね。
こだわりや思い入れがあって変化して欲しくない人達にとっては残念なことですけど、商業となってしまっている以上避けようのない変化ということなんでしょう。
なんだかなーって感想にはある程度同意出来るところがあります。
アイドルや高速四つ打ちに触れましたが、音楽作っていても大きな需要を狙って、所謂売れそうな曲を作れば、と言われることが少なくないです。
しかし己を主張する表現活動である以上、少なくとも自分の納得出来る物を作るのが大前提でして、僕は個人の好みとしてはアイドルも高速四つ打ちもまるで良さがわかりません。
故にその二つに追随するような楽曲や形態を作ることは出来ませんでした。
そしてそういう時いつも"なんだかなー"と思うわけです。
消費者としての"なんだかなー"と、僕の音楽に対する"なんだかなー"は一見立場が異なっていて一緒にするにはピントがずれてるような気もしますが(僕はしましたが、考えました)、共通する部分もあるのかなと。
それはつまり、その人の意識とか熱とかそう言うものが、どれだけ対象に傾けられたかだと思うんです。
仕事のやりがいは、職種ではなくその人にどれだけの裁量権があるかで決まる、という話があります。
概ね同意なんですが、これって仕事以外にも結構言えるのかなと。
上述した僕の音楽に対する"なんだかなー"は、言い換えれば"売れる売れないに関してはどうせ俺の好きなように作れば売れる感じになるから黙って好きな様に作らせろやヴォケ"(実際にどうかは不明)という話ですし、しっきー氏の消費者としての"なんだかなー"は、かつて自由意思に基づいて齧り付いていたコンテンツの変質に向けてですよね。
要するに熱中ややりたいことを自由意志に基づいて選べるということが人生を豊かにするということなのかと。
自らが選んで熱中したコンテンツの何らかの圧力による変質可能性から来る憂いが共通なのかなと思うわけです。
当たり前と言えば当たり前の感想なんですが、思い入れだとか傾けた情熱と、商業における需要を満たす行為って言うのはまるで切り離して考えなければならないものなんだなって言うのを実感させられる話だなと思ったのでした。
ただ、切り離して考えた上で、それでもやはり自分の納得出来る良いモノを消費者に届けて自分はお金を儲けたい。そうも思います。
多くの需要を獲得した上で変わらないスタンスでやっていくのはなかなかに難しい。
信者と書いて儲けると読むのはかなり的を射ていて、増えれば増えた分だけ需要に振り回される様になるんでしょう。
さてだいぶ散らかりましたが今日はこの辺で。
実はまだ感想というか思うところがありますが、それについては後日また書きます。
それではまた。