日記:自分が音楽に求めるものについて
今日は特に中身とか無く、思ったことや最近あった出来事を書いていきます。
先日、オーストリアに留学していた後輩が帰って来たということで母校の日野キャンパスがある豊田に行って参りました。チャリで。
多少迷いましたが昔高幡不動に住んでいてよく通った道などを反芻しては懐かしく感じ、やはり自分は田舎暮らしが似合っているのかもしれないと思いました。
かつて新宿で過ごした一年半は、思い返せば正直若干辛かった。
知人の好意で住まわせてもらった風呂無し、キッチン無しの雑居ビルは日が全く当たらず、朝なのか夜なのかわからないような暮らしでした。
毎日水商売の求人音声を流すトラックが通行し、警察なのか消防なのか救急なのかわからないサイレンが毎晩毎夜聞こえて来る部屋で寝泊まりしていました。
付近には飲食店が多く、少し歩けば新大久保の韓国街。
そこから繋がる新宿の真ん中・歌舞伎町も含め、どぎつくおどろおどろしい照明はいつ見ても自分と関わりがあるものには見えませんでした。
そこを通り過ぎる度に、いや、毎日暮らしている中でふと気付く度に、俺は正常だ、俺は正常だと、少し遠くから自分を見ては言い聞かせる時もありました。
その度に普通や正常が何なのかはわからなくなっていきました。
結局そんなものは恣意的・主観的な物差しでしか計れないもので、僕にとっての普通や正常はそこには無かったということなんでしょう。
それを言い出したら、父や母に言い聞かせられて育った理想的な大人像から離れて、独りで音楽をやっている時点で宙ぶらりんになってしまっていることは自明ですが。
何にしろ、田舎の方に引っ越して来てよかった。
今の家は日も当たるし、周りに人が住んでいるというだけでやはり落ち着きます。
人とは違うことをしなければ、個性とは何だ、といつも自分に問いかけている割に、他人と同じことをして生活している、という事実に安心するのです。
おかしな話なようでいて、人との共通点や相違点を観察し言語化出来る、自然にどうすればいいかがわかるということが、個性的かつ普遍的なコンテンツを作ることに良い影響を与えるのかもしれません。
自分はこれで良いのだと思えるためには、人と比べることは必要不可欠だと感じています。
料理も自分で出来るので、野菜をよく食べる様になりました。
新宿にいた頃は外食が多く、太ったし常にお腹もゆるかった。
何故外食産業は味が濃くて、野菜の入っていないものが多いんでしょう。
値段が上がると単純に量が増える。アレも意味がわからない。食えないってそんなに。
今は便通も良いし食生活も安定しています。自炊最高。
音楽に対するモチベーションも高いし、頑張ろうって気になっています。
話は戻りますが、豊田に遊びに行きました。
まあ普通に後輩と酒を飲んだり音楽を聴いたり動画を見たりしました。
後輩は二人いまして、留学から帰って来た方とその友達がいます。
そいつらは仲が良く、ピンクフロイドが大好きです。
僕にも積極果敢に薦めてきました。が、ピンと来ませんでした。
それがなぜピンと来なかったのか。
そこを考えて日記を書いている次第です。
二人は何と言う曲かは忘れましたが、恐らく有名な曲を再生しました。
それを聴いて、まず僕が思ったのは、
"これ、全パート一人で作れるし再現出来るな"
だったんです。
耳が良いので、僕は簡単なフレーズなら聞いたらすぐ弾けてしまいます。
自慢じゃないですが、ドラムも鍵盤もギターもベースもそれなりに演奏出来ます。
ですので、再現だけならさほど難しくはないなと判断しました。
彼らの演奏は、各パートが複雑なコードであったり、難解なフレーズであったり、そういったものを使っているわけではありません。
そういった表現は、実は個性を発揮しようとする時に必須ではありません。
そこを理解し、オリジナルを創作し、しかも世界的に評価されたという点においては口を挟む余地がありませんし、純粋に凄いと思います。
が、僕にとって凄いと思える音楽というのは、自分が再現不可能かどうか、というところなのかもしれない。
そう思いました。手が届かない、とも言えるかもしれません。
ベタな進行に乗っている筈なのに、信じられないくらい綺麗で胸に響くメロディや声。
或いは、自分ではとても思いつかないような奇妙奇天烈であったり、いくつものアイディアが重なって美しくかつ鮮烈に感じられるアンサンブル。
どうしたらそんなフレーズが出てくるんだ、というような即興演奏。
そういったものに自分は突き動かされるのだなと。
そしてそれら表現は一聴しただけではわけがわからなかったり、パッと聴いただけでは再現が出来ないと感じるものが殆どです。
要するに、再現出来ないくらい難解でありながらわかりやすくもあり、かつ、自分の好みと合致する音楽を自分は求めているのだな、と思ったのでした。
これはもう音楽を好んで聴くとかそういうレベルではなくて、作り手視点とリスナー視点を切り離せていない自分を感じました。
分離させることは自分の中ではもう出来ないんだろうなと。
作り手として分析的な視点は不可欠ですし、そういう意味では音楽も学問や、研究に近いものでもあります。
実際、理論に対する造詣が深い人々はリアルに勉強しているようなものだと思います。
ジャズ研の後輩なんかは、マジで何言ってるかわからないです。
思うのは、どうしたら現代において、音楽において、自分はコロンブスの卵を用意出来るか、ということ。
ピンクフロイドだって、ビートルズだって、再現可能だったとしても凄いのはそこではないことも当然わかっています。
新しいものを産み出して来た先人に畏敬の念を持つからこそ、自分も音楽的な挑戦をしたいと思うんです。
あとはポップであるということ。
挑戦的なポップスとは何か、っていうのも最近考えます。その辺りはまた別の記事でまとめられたらなって思います。
そして最後にどうでも良いことですが、遊んだ帰りに"ヘッドハンター"って名前の床屋を見付けました。
いや、それはダメだろ。
そもそもヘッドハンターってアレだろ、優秀な人を他から引っこ抜いてくることだろ。
っていうかその意味じゃなく直訳だったとしても、床屋が頭狩っちゃダメでしょうよ。
まさか頭刈ると頭狩るをかけているのか?
などと考えながら帰りました。雨の日はチャリに乗るのは辛いですね。
今夜は風邪ひいたんで生姜を入れて鍋でもしましょう。
では今日はこの辺で。