作詞・曲、編曲等の制作ご依頼について
池澤寛行は個人・法人を問わず楽曲制作のご依頼をお待ちしています。
出来ること
- 歌モノの作詞・作曲・編曲
- ドラム、ギター、ベース、キーボードの演奏・打ち込み
- インストゥルメンタル、BGMの制作
制作事例
アレンジしたもの
ご料金
【歌モノの作詞・作曲】
4分程度で各50,000¥〜
【編曲】
4分程度で50,000¥〜(ミックス込み)
【BGM・インストゥルメンタル】
30秒〜1分で30,000¥〜
1分〜2分半で50,000¥〜
2分半〜4分で70,000¥〜
まずは下記からお気軽にお問い合わせください。
雑記4/11:未来の音楽家は何をする人になるのか
昨日、新音源のジャケットのデザインを頼んでいる大学の後輩に会ってサンプルを受け取り、色々と話しました。
その時に出てきたこの話がとても面白い。ちょうど最近話題になっているというのが聞けてラッキーだった。
AIが今は亡き偉大な画家や音楽家の特徴を学んで彼らの新作を作れる様になる未来。
超興味深いですよね。
僕はこれとは全く関係無しに、入力したMIDI信号をリアルタイムで再現出来るロボットプレイヤー達が安価に手に入る様になったら面白いなと思っていました。
その手の研究も恐らく、知らないところで進んでいると期待しています。
例えば、かのレイディオヘッドのメインヴォーカル、トム・ヨーク先輩をして「挑戦的な音楽を作ることは彼に任せた」と言わしめたスクエアプッシャー先輩。
彼がロボットを使った超絶技巧音源を作った、という記事はまだ記憶に新しいです。
「どんなに打ち込みが発達しても人間の手に寄る生演奏の需要は減らない」
こう考える人は今、少なくないと思います。
実際フェスやイベントが増えてますし、モノよりも体験を消費したいという需要が高まっていると言われていますよね。
生の演奏の魅力について考えてみると、やはり音の解像度の高さや荒々しい迫力、元の音源には無いミスやアレンジ、そういったものが求められているのだと思います。
そしてそれ故に、打ち込みが発達してもライブの需要がある限り、演奏者の仕事は無くならないと今考える人は少なくないと。僕は思っています。
しかし、コレは将来的にもずっとイエスなのか?
僕は限りなくノーに近いと思っています。演奏者の需要は恐らく下がります。
同時に、恐らく作詞作曲編曲録音ミックス、そういったものが人の手によって行われる機会も、(どのくらいの勢いでかはわかりませんが)減少するのではないでしょうか。
理由は単純明快、機械が発達するはずだからです。
さっきの記事ほど指や腕が多い必要はないんですけど(笑)、プレイヤーを雇って演奏してもらうよりも安価に、打ち込んだデータを忠実に再現出来るロボットが開発されたとしましょう。
僕のような1人で打ち込んで音楽を作っている人間は喜んで食いつくと思います。
なぜなら、わざわざ楽譜を用意したり、それぞれの予定をヒアリングしてスタジオを押さえたり、楽曲ごとに指示を出したりする必要が無くなります。
しかも、ミスすることも理論上はありません。
かつ、お客さんが生演奏に求めているであろう条件もほぼクリアすることが出来ます。
例えば、佐野康夫やクリス・デイヴ、スティーヴ・ガッドのドラムをAIに完全に分析させて演奏させることが出来るロボットが実現したら?
ピノ・パラディーノやミシェル・ンデゲオチェロや亀田誠治のベースを「本人抜きの新作」で再現出来たとしたら?
しかも、それが人を雇うよりも安価に手に入る様になったとしたら、わざわざ人に頼んで演奏してもらう必要があるでしょうか?
レコーディングの現場でも、「打ち込みではなくリアルな音が欲しい」という要望すら、機械が演奏出来れば満たせてしまうことになります。
作詞作曲、アレンジなんかもAIに学ばせたら、プロフェッショナルレベルのものが簡単に入手出来る様になるかもしれません。
イヴの時間、というアニメーションでは、かつてピアノを弾いていたがやめてしまった主人公が描かれています。
彼がやめてしまった理由は、生演奏のコンクールで機械が弾いたピアノに審査で負けたからです。
囲碁や将棋、ゲームの世界ではもう機械が名人に勝つところまで来ています。
そういう未来が、本当に来るんだなと。
ちなみに断っておきますが、僕は「音楽に携わる人間なんて全部機械に取って代わられます。ざまあwww」などと言いたいわけではありません。
「リアルタイムで人間が演奏する」という需要は完全に無くなることはないと思います。減ることは確実だと思ってますが。
じゃあ何が言いたいのかというと、コレ、すごい面白くないですか?
今打ち込みで音楽作ってる自分が、将来何してるのかまるでわからないわけですよ。
何じゃそりゃっていう。ワクワクしますよ。
産業構造の過渡期に生きてるんだなと。
そして、未来の音楽家は何をする人になるのか、というお話ですが、正直わかりません(笑)
ウェブデザイナーなんて職業は10年前にはなかったって言いますし、先の仕事のことなんて想像出来ませんよ。
ただ、例えば映画のBGMが生演奏から録音に代わった時。
移動方法が馬車から自動車に代わった時。
そういう「一見どうしようもなく仕事が無くなる」と思わされるような産業構造の変化は、楽しめさえすれば逆にチャンスなんだと思います。
少なくとも僕は今日書いた様に音楽の作られ方が変化したとしても、自分にはきっと音楽関係で出来ることがあるのだと信じています。
AIに学ばせたら富樫先生の新作が読めたりするのかなぁ。
そうだとすれば、消費者観点からすれば最高の話だなぁ。
さて、今日は友人の誕生日なのでプリンを作っています。完成したら渡しに行ってレモネードのシロップでも作ろうかな。
ジャケもほぼ完成で音源リリースが現実的になって参りました。
これからの活動も要CHECKやで!
それでは今日はこの辺でばいちゃ!
雑記4/7
「池澤くんは本質的に正直なんですね。そう言う人は何かを表現するのに向いていると思います」
実家に帰った時に小〜高まで英文法を習った恩師に挨拶に行った時言われた言葉です。
高校時代、付き合っていた彼女にフラれて随分鬱ぎ込んでいた時期がありました。
僕はあまり覚えてはいないんですが、その時期どうやら恩師にもフラれた、辛いという話をしていたらしいのです。
先生は未だに覚えていて、そういう風に仰ったようでした。
この言葉は、かなり的を射ているように感じます。
最近友人たちとmiitomoで遊んでいます。内容は基本、質問に答えるものです。
「ざわちょめは一生モテモテだけど貧乏と、全然モテないけど大金持ち、どっちが良い?」とか聞かれるわけです。
深く考えずにどっちか適当に答えればいいんですけど、僕は迷ってしまうんです。
結果、「そんな両極端は選べない。モテてお金もあるのが一番いいに決まってる」とか答えちゃうんです。
要するに、受け流すことが下手なんです。
どうでもいい嘘は沢山つきますが、本質的な嘘を僕はつくことが出来ません。
人のライブを見た時、「ギターはいいけど曲は大して良くないな」と思ったら、感想を伝える時は「ギター、いいですね」としか言えないんです。
嘘でも誉めようとすると、メタ的な自分が必ず責めてきます。
思ってもないこと言ってんじゃねーよ、と。
本当に好きなものに関して嘘は絶対につけない。
あとは好みの問題、というところまでレベルが達していないものを誉めることは、自分と自分の愛するものに対する侮辱だと思うのです。
言うまでもなく、賢くありません。
処世術としての嘘は悪ではありません。むしろ正しい。
僕の尊敬する先輩は、年上受けがとてもいいそうです。
礼儀作法がしっかりしていて、相手を持ち上げ自分を出さないことが円滑なコミュニケーションを導くということがわかっていて、実践出来ているからでしょう。
その先輩と礼儀について話したことがあります。
何故尊敬しているわけでもない人間に敬語を使わなければならないのか。
言葉遣いに関してならばまだギリギリわかる。
だがなぜ自分より長く生きているというだけで当たり前に偉いと思っている人間がこの世の中には多いのか。
尊敬というのは行動で集めるものだ。敬語に代表される敬意というのは強要するものではなく、自然に発生するべきものではないのか。
僕は後輩にタメ口で話されたって何の抵抗も無い。理解出来ない、と。
その時先輩は言いました。
特に仲が良いわけではない間柄でこそ、敬語が必要なんだと。
一般社会での不要な諍いを避けるためのセーフティネットとして作用するということなのでしょうか。
知識としては理解出来ます。が、実感として伴っているかと言えばそうではありません。
要するに、本音と建前が使い分けられない。外用と中用の自分みたいなものが作れていないのです。
自分の周囲では常識的に使われている言葉や振る舞いが他のコミュニティでは非常識として取られることがあり、その度に戸惑います。
が、よく考えたらそれはその言葉や振る舞いは友達の間柄だからで、みんな外では普通に処世術的なものを駆使出来ているのではないか?
おかしいのは俺だけなんだろうか?
そういう悩みをたまに抱えます。
王様達のヴァイキング、という漫画があります。
主人公は天才ハッカーで重度のコミュ障なのですが、投資家に拾われて現代的な事件を解決し成長していくという物語です。
主人公はこれでもか、というくらい一極集中型でして、僕は彼にどうしても感情移入してしまうんです。
僕は友人をして「音楽と料理しか出来ない人」と言わしめる男です。
本当に出来ないことだらけで、それが理由で辛酸を舐めたことも何度もあります。
「人の気持ちがわからない」とか「空気が読めない」なんてdisをくらうこともあります。
幸か不幸か、その主人公とは違って最低限生きていけるだけのコミュニケーション能力や生活能力は身に付けることが出来ました。
しかし、作中で彼の不遇な記憶が描かれる度に泣きそうになります。
どうしてこんな当たり前のことが出来ないんだろう。
そう悩んだことは一度や二度ではなく、他人からそれを責められることも多々ありました。
家族には溜め息混じりに許され、それがまた辛かった。
自分は望まれて産まれて来たわけでもない。きっと生きてても誰の為にもならないのに、社会に何も還元することも出来ない。
そうやって鬱ぎ込んでは曲を作って自分を保っていたものでした。
今は随分ポジティブになって、自分の培ってきたものは無駄ではないしこれでいいんだと思えています。
それはきっと友人だったり、自分の音楽をちゃんと好きだって言ってくれる人がいるからなんだろうなぁ。
感謝してます。
僕にとって音楽作りは、自分の存在を確認することでもあります。
何か産み出していないとすごく不安定になる。
最近は毎日作ってます。楽しくて仕方が無い。今この時、この人生を自分が生きていて本当に良かった。
今までは暗い曲ばっかり作ってたけど、もっと別の自分も表現出来るんじゃないか、という気がしています。
正直者で何が悪いんじゃい。俺は自分が良いと思う音楽を皆に認めさせてやるんじゃい。
全く関係ないですが、諸事情で坊主頭になりました。
意外と似合っているそうです。
といったところで取り留めのないブログは今日はこの辺で。
王様達のヴァイキング、めちゃ面白いので読んでみてネ☆
noteで新曲の配信を始めたのでご報告です
タイトルの通り、noteで新曲を先行配信しております。
完ッッッ全な新曲です。どこにも出してませんし、誰も知りません。
思い返せばそれ町を作ったのが2013年の夏。
ちゃんとした音源を出すのはおよそ2年半ぶりです。
何してたって、生きてましたよ(笑)
もっと早く作れば良かったって言われそうですけど、その時にしか出来ないものを作ってますから許して下さいね。
さて、そのような実験的な試みを何故始めたかに関しては以下の記事にまとめておりますので、お時間あればご一読あれ。
元々、文章と音楽を一緒に売ろうというアイディア自体はありました。
それを小説にするのか、ライナーノーツにするのか随筆にするのか、そういったことは漠然としか考えていませんでしたが。
何やらにわかにnoteがアツいという気運が高まって来たようでしたので便乗することにしました。
無論文章も本気で書きますけども、音楽至上原理主義的ミュージシャンである以上、それらはサブコンテンツに過ぎません。
これまで通りあくまで音楽に注力する姿勢は変わらず維持して行きます。
常に綺麗で新しくて、かっこよくて、自己顕示欲の発散になる音楽を作り続けていく生涯を目指します。
今回の投稿はそのための一手です。
応援して頂いてる皆様に於かれましては、是非新曲をご購入頂き存分にヘヴィーローテイションして頂ければと思います。
また、今回の新曲は3月リリース予定の4曲入りEP"社会不適合者が見た夢"から配信されております。
EP自体のリリースもご期待頂ければ幸いです。
ブログ書くのを再開したは良いものの、なんだかんだで慌ただしく日々が過ぎ去り、気付けば3週間ほど間が空いてしまっておりました。
その間何をしていたかと言えば、無論音楽を作っておりました。
実は3月リリースのEP以外にも曲は出来てまして、あとはソロの録音と歌入れが終われば、さらに別の4曲入りEPが完成する予定です。
それとは別にカバー動画に関しても進めています。
そちらもあとは歌入れとギターの録音のみです。
バンドサポートもちょいちょいしています。
nhhmbaseというバンドのリーダー、マモルさんのソロプロジェクトで鍵盤を弾いたり、居倉智哉くんというシンガーソングライターのバックでベースを弾いたりしています。
相変わらず節操無く、何の楽器の人やねん、といった感じで活動しています。
そちらもちゃんと形になったらご報告させて下さい。
新しい音源に関しては恐らくnoteでの解説がメインになるかと思います。
Facebookやtwitterのアカウントで簡単に使えますので、良かったらそちらもフォローして頂けたら嬉しいです。
最近はやる気に満ち溢れながらも、漠然と毎日何かに関する不安を抱えながら生きています。
一体誰に許しを請うているのか。何故生きているだけで罪悪感を持たなければならないのか。
何か一つのことを突き詰めたいという気持ちだけでは社会においては爪弾かれるだけだとしたら、伴わなければならないのは本当にお金だけなのだろうか。
全てはバランス感覚で成り立っているとはわかっていても、不安と戦う度に少し感傷的になってしまいます。
大人にならなければなりませんね。もう子供じゃないんだから、とこの間姉に言われました。頑張ります。
それでは今日はこの辺で。またネ!
日記:自分が音楽に求めるものについて
今日は特に中身とか無く、思ったことや最近あった出来事を書いていきます。
先日、オーストリアに留学していた後輩が帰って来たということで母校の日野キャンパスがある豊田に行って参りました。チャリで。
多少迷いましたが昔高幡不動に住んでいてよく通った道などを反芻しては懐かしく感じ、やはり自分は田舎暮らしが似合っているのかもしれないと思いました。
かつて新宿で過ごした一年半は、思い返せば正直若干辛かった。
知人の好意で住まわせてもらった風呂無し、キッチン無しの雑居ビルは日が全く当たらず、朝なのか夜なのかわからないような暮らしでした。
毎日水商売の求人音声を流すトラックが通行し、警察なのか消防なのか救急なのかわからないサイレンが毎晩毎夜聞こえて来る部屋で寝泊まりしていました。
付近には飲食店が多く、少し歩けば新大久保の韓国街。
そこから繋がる新宿の真ん中・歌舞伎町も含め、どぎつくおどろおどろしい照明はいつ見ても自分と関わりがあるものには見えませんでした。
そこを通り過ぎる度に、いや、毎日暮らしている中でふと気付く度に、俺は正常だ、俺は正常だと、少し遠くから自分を見ては言い聞かせる時もありました。
その度に普通や正常が何なのかはわからなくなっていきました。
結局そんなものは恣意的・主観的な物差しでしか計れないもので、僕にとっての普通や正常はそこには無かったということなんでしょう。
それを言い出したら、父や母に言い聞かせられて育った理想的な大人像から離れて、独りで音楽をやっている時点で宙ぶらりんになってしまっていることは自明ですが。
何にしろ、田舎の方に引っ越して来てよかった。
今の家は日も当たるし、周りに人が住んでいるというだけでやはり落ち着きます。
人とは違うことをしなければ、個性とは何だ、といつも自分に問いかけている割に、他人と同じことをして生活している、という事実に安心するのです。
おかしな話なようでいて、人との共通点や相違点を観察し言語化出来る、自然にどうすればいいかがわかるということが、個性的かつ普遍的なコンテンツを作ることに良い影響を与えるのかもしれません。
自分はこれで良いのだと思えるためには、人と比べることは必要不可欠だと感じています。
料理も自分で出来るので、野菜をよく食べる様になりました。
新宿にいた頃は外食が多く、太ったし常にお腹もゆるかった。
何故外食産業は味が濃くて、野菜の入っていないものが多いんでしょう。
値段が上がると単純に量が増える。アレも意味がわからない。食えないってそんなに。
今は便通も良いし食生活も安定しています。自炊最高。
音楽に対するモチベーションも高いし、頑張ろうって気になっています。
話は戻りますが、豊田に遊びに行きました。
まあ普通に後輩と酒を飲んだり音楽を聴いたり動画を見たりしました。
後輩は二人いまして、留学から帰って来た方とその友達がいます。
そいつらは仲が良く、ピンクフロイドが大好きです。
僕にも積極果敢に薦めてきました。が、ピンと来ませんでした。
それがなぜピンと来なかったのか。
そこを考えて日記を書いている次第です。
二人は何と言う曲かは忘れましたが、恐らく有名な曲を再生しました。
それを聴いて、まず僕が思ったのは、
"これ、全パート一人で作れるし再現出来るな"
だったんです。
耳が良いので、僕は簡単なフレーズなら聞いたらすぐ弾けてしまいます。
自慢じゃないですが、ドラムも鍵盤もギターもベースもそれなりに演奏出来ます。
ですので、再現だけならさほど難しくはないなと判断しました。
彼らの演奏は、各パートが複雑なコードであったり、難解なフレーズであったり、そういったものを使っているわけではありません。
そういった表現は、実は個性を発揮しようとする時に必須ではありません。
そこを理解し、オリジナルを創作し、しかも世界的に評価されたという点においては口を挟む余地がありませんし、純粋に凄いと思います。
が、僕にとって凄いと思える音楽というのは、自分が再現不可能かどうか、というところなのかもしれない。
そう思いました。手が届かない、とも言えるかもしれません。
ベタな進行に乗っている筈なのに、信じられないくらい綺麗で胸に響くメロディや声。
或いは、自分ではとても思いつかないような奇妙奇天烈であったり、いくつものアイディアが重なって美しくかつ鮮烈に感じられるアンサンブル。
どうしたらそんなフレーズが出てくるんだ、というような即興演奏。
そういったものに自分は突き動かされるのだなと。
そしてそれら表現は一聴しただけではわけがわからなかったり、パッと聴いただけでは再現が出来ないと感じるものが殆どです。
要するに、再現出来ないくらい難解でありながらわかりやすくもあり、かつ、自分の好みと合致する音楽を自分は求めているのだな、と思ったのでした。
これはもう音楽を好んで聴くとかそういうレベルではなくて、作り手視点とリスナー視点を切り離せていない自分を感じました。
分離させることは自分の中ではもう出来ないんだろうなと。
作り手として分析的な視点は不可欠ですし、そういう意味では音楽も学問や、研究に近いものでもあります。
実際、理論に対する造詣が深い人々はリアルに勉強しているようなものだと思います。
ジャズ研の後輩なんかは、マジで何言ってるかわからないです。
思うのは、どうしたら現代において、音楽において、自分はコロンブスの卵を用意出来るか、ということ。
ピンクフロイドだって、ビートルズだって、再現可能だったとしても凄いのはそこではないことも当然わかっています。
新しいものを産み出して来た先人に畏敬の念を持つからこそ、自分も音楽的な挑戦をしたいと思うんです。
あとはポップであるということ。
挑戦的なポップスとは何か、っていうのも最近考えます。その辺りはまた別の記事でまとめられたらなって思います。
そして最後にどうでも良いことですが、遊んだ帰りに"ヘッドハンター"って名前の床屋を見付けました。
いや、それはダメだろ。
そもそもヘッドハンターってアレだろ、優秀な人を他から引っこ抜いてくることだろ。
っていうかその意味じゃなく直訳だったとしても、床屋が頭狩っちゃダメでしょうよ。
まさか頭刈ると頭狩るをかけているのか?
などと考えながら帰りました。雨の日はチャリに乗るのは辛いですね。
今夜は風邪ひいたんで生姜を入れて鍋でもしましょう。
では今日はこの辺で。
インターネットと多様性について思うところ
前回記事からの続きです。
前回は、"思い入れとか情熱を傾けることと、商業として需要を満たす行為というのは全く別視点で考えなければならないんだなぁ"と当たり前のことを感じてしみじみしました。
今回はまた別で、純粋にインターネットによって広がった多様性について驚嘆したというお話をさせて頂きたい所存。
まずはこちら、rootport氏のブログをどうぞ。
いやーたいへん面白い記事であります。
随分前から僕は"ある集団ではメジャーなコンテンツを、別の集団では誰も知らない、という状況が増えていく"と考えていたんですね。
その集団は一般的に今クラスタと呼ばれてますよね。
この記事はそれをわかりやすく言い換えてくれているなと思ったんです。
で、これがなぜ前回の記事と繋がるかというと、その状況を僕自身が体現したからです。
ゲーム実況ってなんぞ、と。全く関係の無いクラスタのメジャーなコンテンツを知らない別クラスタの人間ですよ。僕が。
これって凄いことだと思うんですよ、マジで。
ちょっと前までは"有名になりたい"とか、"面白いことやって人気になりたい"って考えた人は、まず芸能人になろうとか、テレビに出ようって考えるわけじゃないですか。
それぐらいしか思いつくことなかったと思うんですよ。
実際、音楽で食っていくって話をすると、未だにメジャーデビューしないと、って思ってる人もいますし、テレビに出なきゃ、とかまずは有名にならないと、って言う人は結構います。
間違ってはいないけど、他にも選択肢はあります。
その話はまた別のどこかで出来たらしたいです。
話は戻って、"有名になりたい"が念頭にあったとしますよね。
そうしたら今じゃ自分の好きなコンテンツやプラットフォームによっては、選択肢が"ゲーム実況者になろう"だったり、"ニコ生主になろう"だったり、"ユーチューバーになろう"だったりするわけでしょう?
こんなに多様な選択肢があるってほんと良いことだなって思うんですよ。
ちなみに、ここでの多様性と言うのは、rootport氏の言葉を借りれば供給者のそれのことですね。
消費者のそれにも一応触れておきますと、やはり僕はそちらも多様化が進んでいると考えます。
rootport氏が引用している川上氏の記事の一部をそのまま引用させて頂きます。
(小説家になろうに)投稿されている小説の中には本来多様性があるはずなんだけど、ランキング上位に来るものは全部似たようなものになる。ニコ動だって、いろいろな作品が投稿されていますが、何かが流行るとそれ一色になりがちです。参加数が多いってことは、逆に実質的な多様性を減らす効果があるんです。
自分に当てはめて考えるとわかりやすいんですが、僕漫画が大好きなんですね。
で、例えば漫画市場を小説家になろう、ランキング上位を人気漫画作品に例えてみましょう。
すると、多くの人はワンピースやドラゴンボールしか読んでない、インターネットが普及しても消費者は逆に画一化されてしまうんだ、と仰ってると解釈出来るかな、と。
これって、インターネット普及前から変わってませんよね?
流行や人気のコンテンツだけを押さえる人というのは昔から多いですし、そういった人々の存在は昔から変わっていないと僕は思うんですね。
そういう皆さんをライトユーザーと呼ぶとしたら、むしろ変化があったのは、ヘビーユーザーですよね。
情報の検索や共有が簡単になり、個々人が発信力を持ち始めたことでマニアックなコンテンツでも探せば見つかりやすくなりました。
おかげさまで僕は面白くて読んだことのない漫画を沢山読むことが出来ています。
漫画以外でもそういう人って増えてるのではないかと。
先行者のメリットについても川上氏の記事では触れていますが、僕は本当に面白くて質が高いコンテンツならちゃんと今でも評価されて広まると思いますね。
つまり、消費の(ある程度の)画一化は元から起きている現象であって、個性的で質の高いコンテンツを探しやすくなった現代においては消費者の多様性もやっぱり高まっているのではないかと僕は思います。
選択肢が増えすぎていてメジャーな物しか選ばない人が増えている→画一化は進んでいるって考え方も出来るかもしれませんが。
音楽家としては、多様化し分散している音楽ファンのどの層に玉を投げるか、かつそれは適切かどうか。
そこがこれからの自分がうまくやっていけるかどうかの鍵だなと思います。
あともう一つは、より増えていくコンテンツの中でいかに個性を出し、少数精鋭チームで動けるか。
実際クリエイターが増えているのは確実なので、差をつけることが大事なのだと思っています。
rootport氏の記事では"今の日本ではイノベーターの消失とマジョリティの多様化が同時に起こっている"と結論づけています。
ここだけ少し思うところがあって、僕はイノベーターは消失したのではなく、減少・分散し始めたのではないかなと思うのです。
好きな物に関しては他人に左右されず自らの基準で選ぶ、新しい物にも積極的に投資する、と言う人は何に関してもある程度存在する筈です。そういう人々をイノベーターと呼ぶとすれば、やはり消失とは言えないのかなと。
流れとしては
インターネット・SNSの発展
↓
マスの力を借りずとも個人が注目を集められる様になった
↓
供給者の分散開始
↓
多くがその個々人の情報を見に行く様になって消費も分散
↓
結果イノベーターが分散、マジョリティが多様化
かなりざっくりですが、こんな感じでイノベーターの分散とマジョリティの多様化が起こったのかなと。
いやー今日もとっ散らかった。
長々書いといてアレですが、結局この記事で言いたかったのは、"嗚呼、良い時代だなぁ"ということです。
さて、今日はやることもやったし、そろそろ飲みにでも行きますか。
毎日少しずつでもやるべきことをやる、というのはとても大事ですね。
前進していると実感出来る分、鬱にならない(笑)
ではまたそのうちお会いしましょう。
ゲーム実況って今凄い需要があるということを改めて知りました
はてなブックマークの記事とかよく読みます。
今日も現代人らしくスマフォでとぅいったーをいじいじしていたらタイムLINEに面白そうな記事が出てきたからウホウホ読んでおりました。
その方のブログが前から面白いなと思ってはいたんですが、記事読み終えるとブログって何となく過去記事のリンクとか見ちゃうじゃないです?
そしたら面白そうな記事がまたあったから読んでみるじゃないです?
そしたらその過去記事の方が面白くて、へぇ〜って思っちゃったわけですわ。
ブログのネタって、正直何書いていいのかわからんのですわ。
いつも音楽の作業の進み具合とか、あぁ〜俺ってこんなやつ〜アヘアヘ〜とかばかり言っててもどうしようもないので、たまに面白いと思ったブログとかニュースとかそういうのの感想とか書いてこ、ウフフッ、とか思ってパソコンの電源をオン!
で、読んでたブログの記事がこちら。
結構長いですが、これが面白かったらその数日後に書かれておりますこちらの記事もどうぞ。
感想はなるべく明文化すべき。という自論を持っております。
考えを言語化することで誰かに説明する時にも伝えやすいし、漠然としたイメージだけでは何も産み出せない場合もあります。
本とか漫画読む時もなるべく面白いなと感じた時にメモを取る様にしています。
ということで所感を綴りたいと思います。
正直、ゲーム実況がそんな馬鹿でかい需要を持ってるということを知りませんでした。
海外のユーチューバーでトップクラスに稼いでるのがゲーム実況者だっていうのは知ってたので、ちゃんと知ろうとしてなかったと言われればその通りなんですが。
自分がそもそもゲーム実況というものに面白みを見出せていなかったので。
で、記事を読んでいて思ったのは、アンダーグラウンドから始まった枠組みが市民権を得てメジャーな存在になった時、関係のある別のコンテンツがそれに追随する形になると言うのは、他のジャンルでもよくある、というか商業ベースで考えればごくごく自然のことなんだよな、ということ。
ゲーム実況がこれだけポピュラーになったから、逆にゲーム会社もヒット商品を作るためには実況を意識せざるを得なくなってくるのでは、みたいな話からですが、これは音楽でも同じようなことは起こってるのではないかと。
例えばここ数年だととにかくアイドルが多いですよね。
あとは邦楽ロック界隈で高速四つ打ちが多様されたりと、そのジャンルの中で"アツい"と目される属性があって、どこから始まってるのかはわからないけど、そうした方がウケそうだ、と思ったらそれを狙っていくのは、やはりお金儲けとして正しい。
しっきー氏も正しい、と認めた上で、でもお前らはわかっていない、と言っている。
乱暴な言い方をしてしまえば、アングラ期からの古参が有名になったコンテンツに対して"変わってしまったな"と残念がっている様子なのかな、と。
大きな需要があって、かつ参加者が多いコンテンツって言うのは、やっぱりなるべくその需要を満たす形に変質せざるを得ないんでしょうね。
こだわりや思い入れがあって変化して欲しくない人達にとっては残念なことですけど、商業となってしまっている以上避けようのない変化ということなんでしょう。
なんだかなーって感想にはある程度同意出来るところがあります。
アイドルや高速四つ打ちに触れましたが、音楽作っていても大きな需要を狙って、所謂売れそうな曲を作れば、と言われることが少なくないです。
しかし己を主張する表現活動である以上、少なくとも自分の納得出来る物を作るのが大前提でして、僕は個人の好みとしてはアイドルも高速四つ打ちもまるで良さがわかりません。
故にその二つに追随するような楽曲や形態を作ることは出来ませんでした。
そしてそういう時いつも"なんだかなー"と思うわけです。
消費者としての"なんだかなー"と、僕の音楽に対する"なんだかなー"は一見立場が異なっていて一緒にするにはピントがずれてるような気もしますが(僕はしましたが、考えました)、共通する部分もあるのかなと。
それはつまり、その人の意識とか熱とかそう言うものが、どれだけ対象に傾けられたかだと思うんです。
仕事のやりがいは、職種ではなくその人にどれだけの裁量権があるかで決まる、という話があります。
概ね同意なんですが、これって仕事以外にも結構言えるのかなと。
上述した僕の音楽に対する"なんだかなー"は、言い換えれば"売れる売れないに関してはどうせ俺の好きなように作れば売れる感じになるから黙って好きな様に作らせろやヴォケ"(実際にどうかは不明)という話ですし、しっきー氏の消費者としての"なんだかなー"は、かつて自由意思に基づいて齧り付いていたコンテンツの変質に向けてですよね。
要するに熱中ややりたいことを自由意志に基づいて選べるということが人生を豊かにするということなのかと。
自らが選んで熱中したコンテンツの何らかの圧力による変質可能性から来る憂いが共通なのかなと思うわけです。
当たり前と言えば当たり前の感想なんですが、思い入れだとか傾けた情熱と、商業における需要を満たす行為って言うのはまるで切り離して考えなければならないものなんだなって言うのを実感させられる話だなと思ったのでした。
ただ、切り離して考えた上で、それでもやはり自分の納得出来る良いモノを消費者に届けて自分はお金を儲けたい。そうも思います。
多くの需要を獲得した上で変わらないスタンスでやっていくのはなかなかに難しい。
信者と書いて儲けると読むのはかなり的を射ていて、増えれば増えた分だけ需要に振り回される様になるんでしょう。
さてだいぶ散らかりましたが今日はこの辺で。
実はまだ感想というか思うところがありますが、それについては後日また書きます。
それではまた。